アンドレ・ジイド「地上の糧」


「モネルの書」と対比的に語られることが多いようなので、とりあえず読んでみた。訳は堀口大学による昭和28年のもの(角川文庫)。

結論からいえば、両者はまったくの別物である。共通しているのは、反主知主義の書であること、アフォリズムによる教説が前面に出ていること、くらいではないか。

「モネル」では教えを説くのは少女である。これが不自然だというのはしばしば指摘されてきたことだ。いっぽう「糧」では著者そのひとが(架空の)年少の友人に教えを説くというかたちになっている。だから不自然ではないが、しかしここには男色の臭味がいたるところに感じられる。

また「モネル」では、反主知主義の果てに「汝自身を知るべからず」と説かれているのに対し、「糧」では同じような精神の運動をたどりながらも「汝自身であれ」という結論に達している。このあたりにも両者の違いはよく出ている。

さらにいえば、「モネル」がどこまでも象徴主義の圏域にとどまっているのに対し、「糧」のほうはあくまでもリアリズムに立脚している。ジイドはここではほとんどホイットマンのように語っている。

まあシュオッブにしろジイドにしろ、もともと非常に知的な人なので、これらふたつの反主知主義の書は若気の至り、あるいは一種の病気のようなものだろう。ジイドはいう、「「地上の糧」は、要するに病人が書いた本ではないにしても、少くも病み上りの人間、癒った人間、──病気だったことのある人間の書いた本だ」と。

最後に、この本を読んでいると、「お前はおれか」と叫びたくなるような章句があちこちに散見される。じっさいジイドは──その欠点において──私とじつによく似ている。このことが、私がジイドを好きになれないいちばんの理由だろう。なにしろ自分のいやな部分がジイドの本のなかで拡大されて目の前に突き出されるのだから。