現代詩について思うこと


思潮社から二冊本で出ている「戦後名詩選」は非常によくできたアンソロジーで、ここまでコンパクトなかたちで戦後詩(ほぼ現代詩と同義)を圧縮してみせることは容易なことではない。その点に関しては編者(野村喜和夫城戸朱理)の努力をたたえたいと思うが、さてこの詩集をあちこち拾い読みしながら感じるのは、現代日本語で詩を書くことの困難さである。ここで詩というのは「言語による芸術」のことだ。

個々の詩人の主張が、芸術くそくらえでも、反芸術でもかまわないが、できあがった作品そのものは広義の「芸術」であってほしい、と思う。そうでなければ、それらをあえて「詩」と呼ぶ必要はないだろう。

他の芸術、たとえば音楽なら、同じ曲をなんべん聴いても飽きないし、そのつど新しい発見や感興がある。それはなぜかといえば、音楽が(たいていの場合)ポリフォニックにできているからだと思う。

それに対して現代の口語による詩は、その言葉の本質的なモノフォニー(モノセミーといってもいい)のために、どうしても単調になる。いっぺん読んだらわかったような気になってしまい(そんな気になるだけかもしれないが)、なんべんも反復しようという熱意がわいてこないのである。

いっぺん読んで読み捨てられるようなものを私は言語芸術とは認めたくない。読み手のなかでポエジーが無限に増幅するようなもの、期待の地平においてであれその増幅をそのつど楽しめるようなもの、そういうものでないと詩として認めたくない、そういう気持がある。

現代日本語、これはふつうに使用していては芸術のマチエールとはなりえないものである。

ならばどうすればいいか。言葉にアクロバットを演じさせるしかない。通常の使用を超えたところで言葉を使うこと、それしかない。しかし現代日本語にアクロバットを演じさせるのは、そのへんを歩いているふつうの人を連れてきて、なにか芸をやらせるのと同じような危なっかしさがある。いかに奇抜な芸を披露しても、やっているのが「ただの人(=現代の口語)」なのだから、しょせんは素人芸の域を脱しない。

そんなこんなで、現代日本語で詩を書くことの絶望的な困難さのみがつよく印象づけられる本だった。