ゾラ「獣人」


読んだ本の感想を書くのもずいぶんサボっていて、ツイッターに数行書くだけで満足するようになってしまった。そもそもブログというのは時事性とともに生きているようなところがあって、新刊書の感想(というか紹介)には意味があるとしても、100年前に原書が出、50年前に訳書が出たような作品の感想をいまごろ書いても仕方ないだろう、という気持もはたらいている。まあそれもきちんとした論評や研究のようなものなら書く意味もあるだろうが、私のようにたんに読んだ印象だけ書き散らかしているようではダメなのである。

というわけで本の感想はお留守になっているが、この作品(川口篤訳、岩波文庫)はちょっと紹介しておきたい。というのも、ゾラという作家はいっときひどく持ち上げられ、次に地に落とされて、その状態がかなり長く(一世紀近くも?)つづいていたようなところがあるからだ。本国でのことはしばらくおくとしても、明治時代に日本に紹介されて自然主義の作家たちのバイブルになり、多くの追随者を出したにもかかわらず、それが大正時代になっていきなり評価がガタ落ちになったのは、おそらく当時の権威ある方面から反自然主義の声があがって、それが文壇にまで押し寄せた結果ではなかったか。「ゾラを否定すること、それはとりもなおさず汚物を否定することだ」──そういう声が知らずしらずのうちにゾラの作品を不当に(?)貶めてきたのではなかったか。

しかしここ数年、どういう風のふきまわしか、ゾラの新訳が本屋の棚にならぶようになった。ゾラ復活? そのあたりの消息はよくわからないけれども、おそらく昨今の退屈きわまる純文学に嫌気がさした人々が、本能的に「小説がもっとも小説らしかった」時代の産物を求めるようになったのではないだろうか。それとともに、ゾラの描いた第二帝政下のパリ(あるいはフランス)が、たんにそれだけで歴史的な興味をそそる対象になっていることがあげられる。ゾラの小説は(たとえ作り物にもせよ)、第二帝政から第三共和政へといたるフランスの歴史がパノラマのように鳥瞰できる「装置」として、一種のガジェット的な興味からも再顧される価値があるのだ。

というわけで前置が長くなったが、この「獣人」という小説。まずいっておきたいのは、この小説が特殊な種類の嗜好をテーマにしていることである。すなわち「淫楽殺人」。私はこのダイアリーで、自分がとくに興味をもつモチーフとして「暴力、官能、背徳」の三つがあることを何度となく繰り返しているが、淫楽殺人こそはその三つのモチーフを打って一丸としてものではないだろうか。そしてこの小説のすばらしいところは、そのテーマがあからさまに描かれるのではなく、あくまでも背景(あるいは前提)として、作品の雰囲気づくりの上で生かされていることにある。悪魔は背後にいる。いつそいつが鎖を切って暴れだすかわからない。この状況が作品の全体を異様な迫力でもって宙吊りにしている。この宙吊りこそがサスペンスであって、読者はいつ惨事が起ることかとはらはらしながらページを繰ることになる。そして恐るべきことにこの緊張状態は最後まで弛緩することなく持続する。このサスペンスの持続だけでもゾラの力量は高く評価されていいと思う。

さて次は作品のもつ映像的な力のこと。この小説では冒頭ですでに殺人が起る。パリ発の列車内におけるグランモラン裁判長の殺害。この一瞬のうちに起る出来事を、たまたまその列車が通過する踏切近くにいたジャック(主人公)が目撃する。もちろん驀進する列車のなかで行われた殺人の一瞬の映像なので、人物のはっきりした姿などはわからない。にもかかわらず、ナイフをもった殺人者が犠牲者の上にのしかかっている映像はジャックの脳裏に消えがたい印象となって刻印される。同時に読み手の頭にも、作者のたくみな筆によって描き出されるその「影」がいつまでも悪夢のように残ることになる。この「影」はその後何度も喚起され、そのたびごとに徐々に鮮明な像へと解像度をあげていくかにみえるが、しかし最後まで「影」はそのぶきみな姿のままでとどまる。このあいまいであってしかも鮮烈な「映像」の印象は読了後も長くその残像を読み手の脳裏に刻みつけるだろう。

次は生き物としての機械のこと。本作に出てくる機関車には「ラ・リゾン号」という女性名がついている。これは機関手ジャックが自分の運転する機関車を女性に見立てて命名したものだ。ジャックはラ・リゾン号をまるで生きている女性のようにかわいがり、その整備にいそいそと余念がない。そして彼はこの機関車を運転しているあいだだけ、淫楽殺人のオブセッションから免れている。ここで機関車を運転することは、ジャックにとっては女性との性行為の暗喩もしくは代償となっている。そして驀進する機関車のなかで行われるこの合体(文字通りのcoitus=いっしょに行く)は、ラ・リゾン号が一種の独身機械(マシン・セリバテール)であることを暗に物語る。この女性としての機関車という観点は、おそらく当時のユイスマンスの美学などにも共通するものをもっている。

この小説には何人もの人物が登場して、それぞれが心理的な葛藤を演ずる。そのうちでも顕著なのが「嫉妬」である。おおざっぱにいえば、この小説の筋立ては嫉妬にはじまって嫉妬に終るといってもいい。そしてこの嫉妬の感情は犠牲者を血祭りにあげるまで収まることを知らない。それは当事者とは無関係な赤の他人をも巻き込む惨事となってあらわれる。が、最後の最後になって、そんな人間的な感情をあざわらうかのように、機関車はあらゆる制御の手をふりすてて、純血種の野獣のように究極的な自由を手に入れる。何人もの人間の屍を越えて、いまや機関手も火夫もいない機関車は、目も廻るような速力で煙と火を吐きながら通り過ぎる。

「機関車が途中踏み潰す犠牲者などが何であろう! やはりそれは、飛び散る血潮などには目もくれず、ただ未来へ向って驀進しているのではなかったか? 闇の中を、馭者もなく、死の巷に放たれた盲目で聾の獣のように、かの肉弾──もう疲労に頭は鈍り、酔って歌を歌い続けている兵士──を載せた列車は、ひた走りに走っていた」

こうして「獣人(獣のような人間)」という小説は「獣のような機械」の驀走をもって幕をとじる。それはまるで獣人(Bête Humaine)をも粉砕して勝利の血に酔う機械獣(Bête Machine)の凱歌のようだ。