「モネルの書」と「建築の七灯」


「モネル」第一部をやっとかたづける(→マルセル・シュオッブ「モネルの書」 - 翻訳文書館)。いろいろと怪しいところはあるが、とりわけわからないのは次の一節。

Souffle sur la lampe de vie que le coureur te tend. Car toute lampe ancienne est fumeuse.

直訳すれば、「走る者がおまえに差し出す生のランプに息を吹きかけろ、なぜなら古いランプはみな煙をたてるから」となる。

疑問点。「走る者」とはなにか。「生のランプ」とはなにか。なぜそれが「古いランプ」なのか。

la lampe de vieで検索すると、ラスキンの「建築の七灯」が引っかかった。どうもラスキンのあげる七つの灯火のうちのひとつが「生のランプ」らしい。そういえば、「モネル」第一部のこのあたりには建築関連の記述が多い。

となると、シュオッブはラスキンの本からなんらかの暗示を得ているのだろうか。

さて次は「走者」。独訳をみるとLaeuferとある。これは直訳であってなんの参考にもならない。

「走る」という言葉はドイツ語でもフランス語でも多義であって、そこから派生した「走者」の解釈もまた多義にわたる。たとえばドイツ語のLebenslauf。これは人生という意味のほか、「履歴書」という意味もある。おそらくはcurriculum vitaeの直訳。英語では「カリキュラム・ヴァイティー」。

ここでは「走る」というのは端的に「生きる」をあらわす。となると、「走る者」とは「生きている人」もしくは「生きていた人」をさすのか。そしてそれはつまりラスキンのことなのか。

「過去に生きていた人(ラスキン)の差し出す生の灯に息を吹きかけろ、それはすでに古びて汚い煙をたてているから」が正解なのだろうか。ラスキンは当時(1894年)まだ存命だったみたいだが、過去の(すなわち古い)人であることには違いないだろう。

まあいずれにしても「建築の七灯」は前から気になっていたものだから、そのうちに読んでみるつもり。


(付記)
ふと思いついたので書いておくと、上にあげたランプをもって走る人というのは、もしかしたらディオゲネスのことを念頭において語られているのかもしれない。白昼にランプをともして「人間」を捜したという逸話の持主。

もうひとつ、ニーチェの語る逸話がある。これも白昼にランプをもって市場を走りまわる狂人の話。もっとも彼が捜しているのは「人間」ではなくて「神」である(「喜ばしい知恵」)。

「神はどこへ行ったのか?……われわれが神を殺したのだ。……神は死んだ、死んだままだ」

もしこの見当が正しいとすると、ここでのcoureurは「走る人」というより「捜す人」のほうが適当だろう。どうもこっちのほうが正解っぽい。