アリストテレス「詩学」


岩波文庫の旧版*1で読んだ(松浦嘉一訳)。訳語はとうぜん古めかしいが、こっちのほうがどうもアリストテレスを読んだ、という気になれる。この本の解説には「修辞学」からの引用がいくつかあって、それを現行の訳(戸塚七郎訳)と対照してみると、やっぱりどうもしっくりこない。古典は読みやすければそれでいい、というものでもなさそうだ。

さてこの本、アリストテレスの本のうちではあまり重要視されていなかったらしく、原典は早くに失われ、中世ヨーロッパでは不完全なラテン語訳でわずかに知られていたという。だからダンテはもちろん、ボッカチオもペトラルカもこの本のことを知らなかった。原典が発見されて初版が出たのはようやく1508年になってからだった。

しかし、たとえ前記の詩人たちがこの本を読んでいたとしても、彼らの著作にはあまり影響を及ぼさなかったのではないかと思われる。というのも、この本にいわゆる「詩」とは、詩一般のことではなくて、もっぱら叙事詩と戯曲、それも悲劇にかぎられる。早い話が、アリストテレスにとってはホメーロスの二つの叙事詩三大悲劇詩人の書いた悲劇しか眼中になかったようだ。もっとも、原典では後半が失われていて、そこには喜劇論も書いてあったというのが学者の一致した見解らしい。

それはともかくとして、この本は悲劇の誕生から説き起こされているけれども、その起源がどんなものだったかは解説を読んでもさっぱりわからない。

「トラゴーディア(悲劇)は、とにかく、即興詩に端を発した。喜劇もそうである。トラゴーディアはディツランボスのコーラス団長(即ちディツランボスの作家兼作曲家)を以って始まり、喜劇は、未だに、吾々の多くの都市に於いて慣習として残っている、陽物崇拝歌の作家を以って始まったのである」(第4章)

そうはいっても、かんじんのディツランボスが作品として残っていないので、なにをいっても群盲象撫でになってしまう。この本の解説にはヴィラモーヴィッツをはじめとする文献学者の見解がうんざりするくらい紹介されていて、それはそれでおもしろいのだが、けっきょくのところ古代ギリシャの悲劇と喜劇との違いは、たとえばオペラ・セリアとオペラ・ブッファとの違いと類比的なのではないか、ということくらいしかわからなかった。

アリストテレス詩学の眼目は、おそらく悲劇(というかトラゴーディア)の本質を恐怖と哀憐とのふたつの感情の喚起にもとめている点にあると思われる。これを敷衍すれば、悲劇はおもに感情にはたらきかけ、喜劇はおもに理知にはたらきかける、ということになるだろう。喜劇は悲劇よりも軽く見られがちだが、感情よりも理知にうったえかけるという点においてはむしろ上位に位置するものではないかと思う。

この本にはいろいろと実作が引き合いに出されていて、そういうものを知っていればいっそうおもしろく読まれるだろう。といっても、とりあえずソフォクレスの「オイディプス王」だけ知っていれば、アリストテレスの論を理解するには十分だともいえる。それほどこの本においてソフォクレスの作品は高く評価されている。

オイディプス王」のほかには、エウリピデスの「イフィゲネイア」がよく引き合いに出されている。私はこの作品は読んでいないのだが、解説にある梗概などを見ていると、なんとなく鴎外の「山椒太夫」の話を思い出す。イフィゲネイアとオレステス安寿と厨子王にダブってみえてくる。

鴎外はおそらくゲーテの「イフィゲーニエ」などを通じて、古代ギリシャ以来の悲劇の本質をよく知っていたのではないか。そしてそれを自作の「山椒太夫」に応用したのではないか。そういえば、この小説にはアリストテレスのいわゆる「恐怖と哀憐」がたっぷりと盛りこまれている。わざわざ古代ギリシャの悲劇を訳本で読まなくても、「山椒太夫」さえ読んでいれば十分なのではないか、と思ってしまった。

*1:新版はホラティウスの「詩学」と抱き合わせで出ている