カーリダーサ「公女マーラヴィカーとアグニミトラ王 他一篇」


大地原豊訳の岩波文庫(他一篇は「武勲(王)に契られしウルヴァシー」)。同文庫では辻直四郎訳の「シャクンタラー姫」が先行しているので、これはいわばその続篇にあたる。カーリダーサの戯曲のうち異論の余地なく真作と認められているのはこの三篇だけらしい。

「シャクンタラー姫」はだいぶ前に読んで、そのときはあんまりおもしろいと思わなかった。訳文がひどく凝ったものだったことだけが記憶に残っている。ところで、今回読んだ本の訳文もやはり凝りに凝ったもので、ある意味では辻訳をも凌駕している。

どうしてこのような訳文になるかといえば、サンスクリット劇には韻文と散文とが混在していること、また登場人物によってその話す言語がまちまちであること(サンスクリットプラークリット──これはさらに三種類に分類されるらしい──の混在)があげられる。こういうハイブリッド言語でできた戯曲なので、それを訳文に反映させようとすれば、どうしても雅俗混交にならざるをえず、結果としてきわめて趣味性のつよい訳ができあがる。その是非はともかくとして、この奇怪な訳文にふれるだけでも本書を手にとる価値はあるだろう。

と、こんなことをいうと内容がつまらないかのようだが、そんなことはけっしてなくて、前に読んだ「シャクンタラー」よりもずっとおもしろく読めた。ゲーテの「ファウスト」になぞらえていえば、「マーラヴィカー」はいわばグレートヘン<喜劇>、「ウルヴァシー」はヘーレナ<喜劇>ということができるだろう。さらにいえば、カーリダーサの劇に出てくる王様と道化との関係は、ファウストメフィストフェレスとの関係に酷似している。

ゲーテは「シャクンタラー姫」の独訳に魅了され、その影響は「ファウスト」のプロローグにあとを残しているらしいが、ひそかに思うに、ゲーテはカーリダーサの他の二作も読んでいたのではないか。

いずれにせよ、これらの戯曲はきわめてインド的であるとともに、時空を超えた普遍的な魅力をもあわせもっている。童女のあどけなさが愛らしいマーラヴィカー、臈たけた美女のウルヴァシー。タイプは異なるが、どちらも萌え属性が全開になっている。こうなると、かつて読み捨てた「シャクンタラー」をもう一度読みなおしてみる必要がありそうだ。