ゲーテ「イタリア紀行」(上)


つまらないといいながら読んでしまった(相良守峯訳、岩波文庫)。

この本がつまらないのは、たぶんゲーテのイタリア旅行が「教養としての旅」であるためだろう。教養としての旅とは、異国の古典的な風土で体験をつむことが、そのまま人格の陶冶に結びつくという信念にもとづいた旅のことだ。これを逆にいえば、人格的完成に結びつかないようなものは徹底して無視する旅だということになる。ゲーテのイタリア旅行はいわば「出来レース」であって、彼はじっさいにイタリアを見る前に、すでに理念においてイタリアを体験しているのである。

その証拠に、この本からはゲーテの精神的な変貌の軌跡はまったく読み取れない。ゲーテははじめからゲーテであって、他のなにものでもない。彼にとっては他者の問題などは存在しないかのようだ。こういう不動のアイデンティティをみていると、ゲーテという人は想像以上に鴎外に近いのではないかと思う。そして、彼のイタリア旅行を鴎外のドイツ留学に重ね合わせたくなってくる。

鴎外といえば、「即興詩人」という「作品」がある。これは一種の「裏イタリア紀行」だとはいえないだろうか。読んだことがないのであくまでも想像だが、鴎外が非常な愛着をもってこの小説を訳したことの背後には、ゲーテの「イタリア紀行」がなんらかのかたちで影を落としているのではないかという気がする。たとえそれがアンチテーゼとしての役割にとどまるとしても。