新田義弘「現象学と解釈学」


2006年にちくま学芸文庫の一冊として出たもの。雑誌や講座に出た論文を集めたもので、読みやすいことは読みやすいけれども、まとまった一冊の本として著者の主張を明確に打ち出したものではなく、そういう意味ではやや散漫な印象を受ける。とはいっても、これ一冊読めばドイツ現代思想のおおまかな流れは把握できるので、思想ではなく思想史に興味のあるひとには向いているといえるだろう。

誤読かもしれないが、自分はこの本を読んで、現象学フッサール教であることをますますつよく確信した。ことに生活世界の現象学においてその感が深い。ここで三位一体の玄義にあたるのは「世界、自我、他者」であり、これはまた「地盤、運動、目標」というヴァリエーションをもつ。このふたつの三位一体のずれ(差異性)からダイナミズムが生じて、それが「生活世界」を構成する。

そしてこれが秘教であるゆえんは、このダイナミズムが外部からは捉えられず、内部からしか体験できないことだ。現象学の営為とは、永遠に止揚されないテーゼとアンチテーゼとのせめぎあいで、ついに悟りの境地にいたることのないまま、ただそれに向けて無限に接近することが許されるだけなのである。悟りの境地がないのだから、とうぜん神もない。現象学のいいところは神ぬきの宗教であることだろう。

この本にはフッサールとならんでハイデガーが大きく扱われているけれども、どうもハイデガーにはあまり惹かれるものがない。それはたぶんハイデガーの哲学に秘教めいたところが稀薄なせいではないかと思う。フッサールにくらべれば、ハイデガーのほうがずっと明快で、しかもドイツ哲学の伝統に忠実だろう。それだからこそ、あの不幸なナチスの一件も起こったのではなかったか。

というわけで、ハイデガーはどうでもいいとして、フッサールのほうはどうしても原典(といっても翻訳)を読んでみたいという気持が高まっている。この機をのがすと、もう二度と現象学との接近遭遇はなさそうな気さえする。