「ハイドン歌曲集」


アメリンクとデムスによる録音(1980年、フィリップス)。

アメリンクの歌をきくたびに、ボードレールの詩句を思い出す。「婀娜として おお たをやかの魔女、きみが若さを飾るくさぐさの色香をわれは語らむか、子供らしさと爛熟の融けて凝りたるきみが美を 描きてきみに示さむか」というもの。この「子供らしさと爛熟の融けて凝りたる美」こそが彼女の身上ではないかと思うのだがどうか。

さて、今回聴いたCDだが、どうも声がおかしい。いつもの彼女の声ではない。なんか、妙にのどを締めつけるような歌い方で、すなおに楽しんで聴けない。録音されたのは1980年。この時期は、私見によればアメリンクの第二の変声期にあたる。この時期以後、彼女の声は子供らしさを失って、爛熟のみが残ることになるが、このふたつの要素を兼ねそなえていないアメリンクはアメリンクであってアメリンクではない。

たとえば、この曲集の2曲目の「人魚の歌」にしても、1972年にEMIに録音された「歌の翼に」所収のものと比べると、どれほどのチャームが彼女の声から失われたかがよくわかってつらい。はじけるように溌剌とした「フォロー、フォロー、フォロー・ミー」というリフレインが、今回のでは「ホロー、ホロー(うつろな)……」ときこえてしまう。「私についていらっしゃい」と「うつろな私」とではだいぶ印象がちがう。

この日記のリンク集(アンテナ)にあるfranzpeterさんの「歌曲雑感」なんかをみていると、氏は変声期以後のアメリンクにもそれ以前と同等の愛情をそそいでおられる。このあたりがほんもののファンとにせもののファンとをわかつ境界だろう。いいとこどりばかりしている自分なんか、本来はアメリンクについて語る資格はないのかもしれない。

まあ、それはそれとして、このCDは数少ないハイドン歌曲集としてりっぱな存在価値をもっていると思う。この曲集をみると、アン・ハンターという女流詩人の詩に曲をつけたものが多い。アン・ハンターは、ハイドンと知り合った当時すでに寡婦になっていたひとで、ブックレットの解説によると、ハイドンとの関係にはたんなる友情以上のものがあったらしい。それが事実だとすると、これらの曲はハイドンの老いらくの恋が生んだラブレターのようなものだったといえるだろう。