悪文の魅力


フッサールの本をさらに二冊買う。岩波文庫の「デカルト省察」と中公文庫の「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」と。まだところどころ味見しただけだが、それでもいま読んでいる「イデーン」(というよりも「考案」)とのあまりの違いに驚く。内容ではなく、文体の違いに。

この二冊の本は、たぶん日本語に訳された哲学書としては極上の文体だといえるだろう。内容はともかく、スタイルのよしあしはちょっと読んだだけですぐにわかる。その意味ではたしかに名文には違いない。それとくらべて、岩波文庫の「考案」の読みにくさはどうだろう。これはもうかつての哲学書の訳本にみられる悪文の典型ではないだろうか。古臭いものが好きな私でもときとして辟易するほどのものだ。

とはいうものの、少なくとも「イデーン」にかぎっていえば、フッサールの思考はいわゆる名文では表現しきれない過剰なものにあふれているような気がする。ひとつのイデーが別のイデーを喚び起こし、それらがごちゃごちゃにからみ合って、さながら畸形のキノコを見ているかのようだ。これはどう整理してみても、いわゆる名文にはなりっこないだろう。そういう整理前の、思考の現場に立ち会っているような生々しさを、池上鎌三の訳はうまく(たぶん意図せずに)表現していると思う。

フッサールという人は、「厳密学」がどうのというくらいだから用語にも厳格だったような印象があるが、じっさいはそのへんはけっこうアバウトで、自分が思いつきしだい、他人に通じるかどうかはおかまいなしに言葉を吐き出していったような形跡がある。考えたことを書くのではなくて、書きながら考えるということ。観念連合により新たな思考を刻々導き出していくこと。

こういう行き方のせいか、「イデーン」、もとい「考案」の文体は(突飛なようだが)「黒死館殺人事件」のそれを想起させる。どちらも悪文ならでは魅力に満ち満ちている。さらにあてずっぽうの思いつきでいえば、「黒死館」を「超越論的探偵小説」の見地から読みなおすのもまた一興ではないだろうか。