フィヒテ「全知識学の基礎」(上)


久しぶりに新刊書店に行ったときに買ったもの(木村素衛訳、岩波文庫)。新刊書店に行きながらこんな古い岩波文庫を買ってしまう自分が情けない。おもしろそうな本や話題の本はいっぱいあるのに、だ。だれかのエントリーに「貧乏人は古典を読め」とあったが、自分の場合はだんだんとそのとおりになってきている。いや、私はこれをいいなおそう、「中高年は古典を読め」と。最新の本は若いひとにまかせとけばいい。同等の情報はネットでいくらでも(多すぎるくらいに)手に入るのだから。

さてこの本だが、「序」から読みはじめて、その格調高い名文に驚いてしまった。文末の署名をみると「西田幾多郎」とある。先達が後進の本に(たとえそれが訳書であっても)序をよせるというのは昔はけっこう一般的だったようだが、それにしても西田がこんな名文家だったとは思いもよらず、ぜひとも彼の本を読んでみたいという気にさせられた。

本書は三つの論文からなっていて、最初のふたつは「全知識学の基礎」への道ならしといったところだ。ではその知識学とはなにか。フィヒテはけっこうもったいぶって、その全体像を容易には明かさない。原語ではWissenschftslehreであって、これはWissenschaftswissenschaftといっても同義だ。じっさい、これはトートロジーではないかという批判もあったらしいが、私としては学問についての学問、すなわち基礎学というほどの意味ではないかと思う。

その意味ではフッサールの唱える現象学とも関係がなくもない。フッサールもカントも観念論には否定的だったようだが、それは一種の近親憎悪ではなかったか。彼らにしても、観念論に敵対するつもりで、いつのまにか観念論の罠にはまってしまっていた、なんてことがなかったとはいいきれないだろう。いずれにせよ、このフィヒテの本を読むかぎり、観念論が哲学の重要な部門であることは動かないように思われる。

フィヒテは全知識学をささえる根本命題として三つの命題をあげている。しかし、じっさいのところ、それは形式論理学でいわれる同一律ただひとつといってもいい。このたった一つの原理から、彼は排中律矛盾律とを論破する。そして同一律の主語を「自我」にすりかえる。すりかえる、といったのは、ここに巧妙な詐術が介在しているように思われるからで、気がつけばA=Aが「われ存在す」を意味することがなんの疑問もなく読み手に納得されるように書かれているからだ。これはちょっと眉に唾をつけて読まないといけないのかもしれない。

序文にこの本のことをドイツ哲学三大難書のひとつと書いてあったのでちょっとひるんだが、読んでみればそんなにとっつきにくい印象はない。いやむしろ読みやすくて、内容がするすると頭に入ってくるような気がする。それこそがフィヒテ一流のトリックなのかもしれないが、しかし門外漢にとってはことの真偽などはどうでもいいので、その思考によって読者を楽しませてくれればそれでOKなのだ。石川淳の名言に「酒には酔ってみろ、馬には乗ってみろ、小説にはだまされてみろ」というのがある。ついでに「哲学にもだまされてみろ」とつけ加えておきたい。

まとまった感想はいずれ下巻を読んでから書こうと思う。ちゃんと書けるかどうかこころもとないが。