フッセル「純粋現象学及現象学的哲学考案」(下巻)


ようやっと下巻読了(池上鎌三訳、岩波文庫)。300ページほどの本にどれだけ手間取っているんだ、と自分でもいやになるが、この下巻は上巻に輪をかけて難解で、たぶん自分がいままで読んだ本のなかでもとびぬけて難解な部類に属する。これとくらべれば、カントの本のいかに読みやすいことか。まったく上には上があるものだ。

で、そんなに苦労して読んだにもかかわらず、じっさいのところほとんど理解できていない。なにしろこの下巻では、意識に手足が生えていたり、ノエシスノエマという双子の姉弟のような概念が出てきたりで、もうなにがどうなっているのかさっぱりわからない。ノエシスノエマ、ヒュレー、モルフェー、ヌース、このあたりの関係がどうなっているのか、この本だけ読んで理解できる人がはたしているのだろうか。

このわからなさの根本原因は、たぶんフッサール自身が現象学をはっきり把握しきっていないことにある。彼もまた本書で「あるべき」現象学を求めて、手探りで一歩一歩進んでいるような感じなのだ。「あるべき」というよりも「妥当すべき」といったほうがいいかもしれない。というのも、この本ではまだ現象学フッサールの頭のなかにしか存在しない理念(イデー)のようなものにすぎないからだ。題名に「イデーン」とあるのも、このことと無関係ではないだろう。

というわけで、大骨折って読んだわりには得るところは少ないようだが、しかしこれを原書と対照させて読んだことで、ドイツ語のほうはかなり上達したのではないかと思う。ただ、こういう読み方をしていると、文を解釈できたことで満足してしまって、かんじんの内容の理解にはさっぱり届いていないということがままある。これでは本末転倒だろう。しかしこういう本末転倒は、ドイツ語学習者に限っては許されるのではないだろうか。

最後に、フッサール自身が引用しているヴントの批判があって、これを読んだときは思わず笑ってしまった。

「フッセルは新しい論理学を、実践的よりも理論的なる方向に於いて基礎づけようとしているのであるが、その基礎づけは、彼の概念分析の何れに於いても、それが積極的内容を有っている限り、実際A=Aであって、他の何ものでもないという事の確言に終っている」

A=Aとは言い得て妙だ。これをわたくし流にいいかえれば、「フッサールを読む前=フッサールを読んだ後」ということになる。