身体改造について


身体改造(body modification)というのがあることを最近知った。ポピュラーなところではピアッシングやタトゥーがある。こういうのはまあファッションとして許容範囲にある。ところが、異物を皮下に注入するインプラントになるとそろそろ病的になってくる。さらに進めば各種の切断がこれに加わる。とりわけ性器の加工など。こうなると事態はすでに猟奇の方面にはなはだしく逸脱してくる。この逸脱のゆえに、modificationというよりはimmodificationといったほうがいっそ適切なのではないか、と私などは思う。

下記のページにその具体例がいくつもあがっている。右のほうにcover archiveというのがあって、そこの年度をクリックすると写真が見られる。ただし、ひとつ注意しておけば、流血やらグロテスクなものが満載なので、そういうものが嫌いな人は見ないほうがいいと思う。ペニスを二つ割にしたもの、切開して尿道を露出させたもの、太いボルトを何本も打ち込んだもの、などがぞろぞろと出てくるから。

それでも見たいという人はこちらのページからどうぞ→BME: Body Modification Ezine - The Biggest and Best Tattoo, Piercing and Body Modification Site Since 1994

さて、これらの写真を見ながら私が思い出していたのは、ホドロフスキーの映画「エル・トポ」、ウィトキンの写真、アルトーの小説「ヘリオガバルス」など。ひとことでいえば肉体の損壊と聖なるものとの関係、ということだ。

パジェスの「切支丹宗門史」によると、キリシタンたちは殉教者の血にそまった土や遺体の一部を夜間に盗み出して、これらを聖遺物として大切に保管したらしい。聖遺物の崇拝はキリスト教の初期からずっとあって、愛の宗教にはふさわしからぬ土俗的な要素を示している。いくらイエスの血がぶどう酒に、肉体がパンに象徴化されても、その根本にあるカニバリズムの痕跡は隠蔽しきれないだろう。キリスト教の母体であるユダヤ教では血と破壊との信仰はさらに露骨で、「レビ記」を読めばその儀式がいかに血なまぐさいものだったかがわかる。

宗教的なものと結びついた身体改造ということでは、男子の割礼、女子の陰部封鎖(インフィビュレーション)がある。後者はいまでもアフリカの各地で行われていて、人権的にも衛生的にも問題になっていることが知られている。しかし、ほんとうの問題は、人間はどうしてこのような非合理な身体改造を行うのか、行わざるをえないのか、ということにある。

日本は文化的に中国の影響を受けていて、たとえば「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝のはじめなり」という教えを本家以上に尊重してきたので、あまり身体改造には積極的でなかった。特異なのは涅歯くらいだろうか。こういう風土では、聖性は肉体の損壊に結びつくものではなく、むしろそれは自然の脅威(あるいは驚異)といっそうよく結びついていたのではないかと思われる。「うぶすな」という言葉には自然信仰と結びついたおだやかな子宝思想が感じられる。そういう立場からすると、生れて間もない子供の体の一部を切除するなんて信じがたい暴挙というしかない。

肉体の切除がとりわけ深刻なのは、それが修復不可能、つまりいったんやってしまったら取り返しがつかない、ということにある。そして、取り返しがつかないものの究極には「死」がある。いったん死んだらぜったいに生き返らない。「死」において失われたものは、ひとつの生命であるとともにひとつの「時間」でもあるわけだ。殺人が重罪であるのは時間の不可逆性と無縁ではない。それはひとつの「時間」、ある「歴史」の抹殺でもあるのだから。そして、それだからこそ人間や動物の犠牲(すなわち供儀)が聖なるものと関連づけて考えられたのだろう。

聖なるものになるということは、人間が人間でなくなること、人間以上のものになることを意味する。身体改造をする人々はおそらくは究極のマゾヒストであり、みずからの肉体を損壊しながら、はるかに聖性を望見しているのではないかと思う。そうでなければ、このファッションの域を逸脱した行為はとうてい理解しがたい。……

……というような感想をもった。当事者からすれば見当はずれもはなはだしいかもしれないが、私としては以上のように考えたい。