日夏耿之介「風雪の中の対話」


ゴスィック・ローマン詩体で有名な(?)著者の雑文集(1992年、中公文庫。原本は1955年刊行)。短い対話篇を集めたもので、暑いさなかに漫然と読むには適した本。

これを読んでいると、なんとなく晩年の永井荷風の顔*1が思い浮んでくる。そして、精神の老年ということを考える。

よく肉体は年をとるが、精神は年をとらない、という人がいる。それどころか、肉体は必滅だが精神は不滅だ、とまでいう人がいる。

しかし、はたしてそうだろうか。

もし精神がそんなに画然と肉体から独立しているのなら、精神には性別がないことになる。逆にいえば、精神に性別がなければ、精神と肉体とははっきりと分離しうるだろう。

しかしこれも、性同一性障害という病気(?)の存在がりっぱな反証にならないだろうか。

というわけで、私は理性や知性には性別はない*2が、精神には性別があると思う。つまり精神はそれだけ肉体に密着しているわけで、とうぜん肉体とともに年をとるのである。

精神の老年がどんなものかといえば、肉体の老年と類比的で、新陳代謝がわるくなって柔軟性が乏しくなり、美しさの点で後退して加齢臭を発するようになる。

本書には、困ったことにこういった精神の老年の特色が露骨に出ていて、どうもあんまり読んでいて楽しくない。

考えてみれば、日夏という人は、若いころから年寄りじみた詩を書いていた。一般にそういう人は、年を重ねるごとにかえって若やぐものだが、彼の場合はそんなことはなく、年とともにますます年寄りじみていき、ついにこの対話集に見られるような一種壮絶な超越論的老年ともいうべきものに到達した。

これを要するに、彼の芸術は老年様式の極みであって、そのように考えれば彼の最高傑作が「呪文」であることにもすんなり納得がいくだろう。

日夏の作品を読むことは、精神の老年を生きることにほかならない*3


(追記、8/2)
上に性同一性障害のことを書いたが、これとはべつに「身体同一性障害」なるものがあるらしい。たとえばこちらのページ(「X51.ORG : 四肢切断を熱望する人々 - 身体完全同一性障害とは」)に詳しい記述がある。こういうのを見ていると、精神と肉体とは一種の弁証法的関係にあるんだな、と思う。


(追記2、8/8)
「老年様式」のひとつの例(マルセル・シュオッブ「三人童子の話」より)。

「われ等三人、尼加刺めは話がよう利けぬのだが、それにわれ等阿連と奴尼と聖都耶路撒冷に詣でむものと鹿島立つた。……かくして、御主はわれ等童男童女ことごとくあの御墓に呼び集め玉ふのぢや。白い御声は夜ともなれば歓喜にみちわたることであらう喃」

これはヨイヨイのチャンジーの語りではない。文中にもあるとおり、十歳くらいの少年の独白なのだ。まことに珍品と評すべきだろう。

*1:写真でしか知らないが

*2:か、あるいは両性的

*3:と断言してしまっていいかどうか