ランボーと身体性


身体改造」で検索してくる人がけっこういるけれども、それだけこれに興味をもっている人が多いということかしらん。いけないなあ、不健康だと思うよ。まあ現代生活はあらゆる意味で刺激にみちていて、刺激というのはエスカレートする宿命にあるから、どんどん過激なものを、と追求していったらもう自分の身体をへんなふうにいじくるしかないのかもしれない。そして、こういった極端なこともやがては慣れてしまうのだろう。

この前書いたときはもっぱらマゾヒズムのことしか頭に浮かばなかったが、よくよく考えてみるとこれはフリークスにも関連している。この道では有名な(?)トカゲ男の動画(→Amazing Lizardman - Must Watch!! - YouTube)をみたら、背中にFREAKという刺青がしてあったのが印象的だった。みずからを畸形化する欲望というのはいったい何だろう。

詩人のランボーは「地獄の季節」のなかでこんなことを書いている。

「俺は遠い国の部族の生れだ、俺の先祖はスカンジナヴィヤの人々だ、奴らはお互の脇腹を刺違えては血を啜り合ったものだ。──俺は身体一面切傷だらけにしてやるんだ、文身をするんだ、俺はモンゴルみたいにふた目と見られぬ姿になりたいんだ、……」

また中学時代の先生にあてた手紙にはこんなことを書いている。

「魂を怪物じみたものにすることです、そう、コンプラチコスの流儀でね。自分の顔にいぼを植えつけて、それを育てている男のことを想像してみてください」

こういうのを読んでいると、ランボーには身体改造に対するやみがたい欲求があったのかな、という気がしてくる。いずれにしても彼の詩にある身体性は即物的かつ変態的なものが多くて、そのことが「理念」重視の象徴派からランボーを遠くへだてるもとになっている。

ちなみに上の手紙にあるコンプラチコスというのは、ヴィクトル・ユゴーの「笑う男」に出てくる架空の結社で、彼らは子供を買い取ってこれを畸形化し、見世物にしていたらしい。ウィキペディアの記述(→Comprachicos - Wikipedia)参照。