肉体について


ウェブを見ていたらトリストラム・シャンディに関するすばらしいサイトが見つかった。こういうのを見ていると、いまさら私がレジュメなんか作っても仕方ないんじゃないか、と思う。まあだれのためでもなく、自分のためにレジュメは作るつもりですけどね……

さて、シャンディがらみでバートンの「憂鬱の解剖」をぱらぱら見ていたら、「小宇宙誌(ミクロコスモグラフィア)」という言葉が目についた。これはコンパクトな宇宙誌、というわけではなくて、どうも人体解剖図譜のようなのだ。小宇宙(ミクロコスモス)とは人体のことで、それに関する記述がミクロコスモグラフィア。

人体を小宇宙と見るトポスは一種の紋切型で、それのヴァリエーションも数多い。たとえばホイットマンは売春婦の身体を壮麗な大伽藍になぞらえている。こういう見方は私には非常に好ましく思われる。

いっぽう、宗教のほうでは人体(肉体)は軽く見られているようで、たいてい救済にあずかるのは精神(霊魂)ということになっている。肉体=必滅、精神=不滅というのは見やすい図式だろう。

ところがローマ・カトリックだけはそういう見方をとっていないらしい。カトリック的見地からすると、肉体を失った霊魂ほど哀れなものはない。肉体がなければ、つまり霊魂だけでは見ることも、聞くことも、感じることもできないじゃないか、というわけである。そこで死後の肉体の蘇りが大真面目で論じられる。

地獄に行くほうの肉体はともかくとして、天上の至福を味わうほうの肉体はといえば、まずアンパッシビリテつまりいかなる苦痛も感じないこと、次にクラルテすなわち光明を放つこと、アジリテすなわち天使のごとき(光速以上の)機敏性、シュブティリテすなわち四次元空間における自在性、の四つの徳が付与されるという。

「人体というものに、二の次どころではないこれほどの重要性をみとめ、霊魂の格をいちじるしく下げ、霊魂がかの終りなき完全の生に参入するためには再びこれが受肉を遂げるべきものと律するまでにいたる教理、まったくの心霊説とはかくまでに正反対であるこの教理こそ、カトリック教会を、もっとも明瞭に、他の大部分の宗派と別つところである」(ポール・ヴァレリー