小説の未来


kanyさんの記事で水村さんの本の内容はなんとなくわかった、ような気がする。で、その内容はといえば、少なくとも私にはトンデモとは思えない。自分でじっさいにその本を読んでみても、おそらくその八割くらいには同意できるのではないだろうか。八割に同意できるということは、その本の八割はすでに知っているということだから、もし私がこの本を読むとすれば、残りの二割を知るためということになるが、そこまでしようという気はいまのところない。

文学語としての日本語ががたがたになっているのは私も感じていることだ。ただ私がたぶん水村さんと違うのは、そのがたがた具合の始まったのがいまから半世紀以上も前だと思っていること。これをいいかえれば、戦後文学が新規に発足することが可能になったのは、まずそれまでの文学語としての日本語をご破算にして別種のものに移行させえたからで、戦前の文学語と戦後のそれとでは質的に別物なのだ。そして、近代文学の発展をになったのは主として戦前の文学語なのであり、その意味では戦後の文学は近代文学ではなくて現代文学と呼ぶのが適切ではないかと思う。

私のおおざっぱな見解では、その現代文学の終ったのが三島の死んだ1970年前後。それ以後はポストモダンの時代に移行する。次にこれがライトノベルなどの台頭で過去のものにされるのがだいたい1990年代のなかば。それ以後はポスト・ポストモダンの時代ということになる。

水村さんはおそらくこの私の定義するポストモダン以降の文学を「幼稚」ときめつけているのだろうが、私にいわせればそれ以前の現代文学もじゅうぶんに「幼稚」である。現代文学の黄金時代はたぶん1960年代。そのころに出た小説を読んでみれば、それがどれだけ幼稚だったかがわかるだろう。日本語だけとってみても、むやみにしゃちこばった「ブンガク」的文体の送迎で、一見してその時代の文体だと特定できるものばかり。これにはおそらくマルクス主義実存主義とが悪影響を及ぼしているんだろうと思う。

この不自然な「ブンガク」的文体を解体したのがポストモダン文学で、それは両村上の作品に代表されるだろう。あのうっとうしい60年代文体をすっきりさせた功績は認めなければならないが、しかしここにきて小説はその文体とともになにか大切なものを失ってしまったような気がする。そして、その失われたものこそが、小説を小説たらしめている重要な要素だったのではないか、と思うわけだ。

その重要な要素というのは、いわゆる文人気質である。文人気質とはなにか。私の独断でいえば、それは生活のすみずみにまで文学をゆきわたらせること、いわば文学を生活の規範とすること、社会とのあいだに文学による障壁をつくること、さらにいえば精神的に貴族であること、など。

この文人気質が日本語の変質とともに失われたいまでは、表現のためにことさら文学を、あるいは小説を選ぶ必然性はどこにもない。もっとほかに「いま」の状況をうまく表現できる手段はいくらでもある。早い話が、ポストモダン小説は同時代のマンガに比べても質的に劣っている。いまの小説で表現できるほどのことなら、マンガだともっとうまく表現できるにちがいない。

そのマンガの表現に近づこうとするのがポスト・ポストモダン文学ではないだろうか。ここまでくると文学がかろうじて文学たりうるのは、それが文字で書かれているという一点だけにすぎない。そしてそこで使われている日本語は、近代文学をささえたかつての文学語とはもはや縁もゆかりもない別物だ。この状況を水村さんは嘆いていて、なんとかしなければならないと思っているらしい。しかし、いまさら古典を子供に読ませたくらいでどうなるものでもないことは、上に述べた経緯からも察しがつくだろう。

最後にひとついっておけば、いまの文学語ならざる日本語は、むしろ戦前よりも豊かになっているように思う。少なくとも60年代ふうの糞づまり文体よりはずっとましだ。つまり日本語そのものが堕落したとはいちがいにはいえないので、堕落したのはたんに文学語としての日本語だけだということになる。それならべつに憂うべきことでもないのではないか。これから純文学で食っていこうとしている若い作家志望者には深刻な問題かもしれないが。


(蛇足)
もし小説に未来があるとすれば、それは「ことば」そのものに深く沈潜して、日本語をその伝統的な機能から解放し、そこから新たな文学語をつくるところから始めなければならない。私なんかは想像するだけでうんざりするような作業だが、そういうところから始めないことには小説に未来はないと思う。そして、それがどれだけ一般の支持を集められるかが、今後の小説に課せられた課題になるだろう。