英語について感じることなど


日本語が亡びるとき」という本が話題になっている。私は日本語がなくなるときは地球から日本人がいなくなるときだと思っているから、そんな先のことはどうでもよくて、とりあえず英語の話をすると、いまはこれだけブログが普及しているんだから、英語のできる人は英語でブログをやればいいのに、とつねづね思っていた。日本語だとどうしても日本人しか読まないが、英語だと全世界の人に読んでもらえる。そっちのほうがよくはないだろうか。もちろん、日本の、そのまたパソコンを扱える層の、しかもその一部のはてな内でわいわいやりたい人は日本語でやればいいだろう。しかしそうではない、なにか趣味なり情報なりを世界の人と共有したいと思っている人はどんどん英語でやればいいのだ。

しかしひるがえって現状を見ると、そういう人はとっくに英語でブログなりホームページなりを作っているのではないか。世界を相手にするには英語でないと通用しない時代はすでにきていて、それが必要な人はすでに英語で情報を発信しているにちがいない。つまり、英語ができるから英語で書く、というわけではないのだ。英語ができてもできなくても、英語で書かざるをえない人が英語で書くのであって、英語のできる人でもその必要がなければ英語では書かないだろう。

いわゆる理系の学問は、扱っている問題がほぼすべてヨーロッパ出来のものだし、普遍妥当性というのが大前提にあるから、当然のように英語一極化はまぬかれない。この分野では論文その他を英語で書くのはもうずっと昔から当り前になっている。だからこの方面で働く人に英語が必要なのはいうまでもないことだし、また世界の第一線で活躍するほどの頭脳の持主ならば英語の習得くらいは朝飯前だろう。こういう人はほっといても英語を勉強するだろうし、どうしてもダメなら翻訳家をやとえばいい。すばらしい業績が日本国内に埋もれたままになっている、なんていう事態はいまではすでに考えられない。

では理系ならざる文系の学問はどうか、といえば、これは英語一極化ではとうてい無理な話で、こっちは専門的にやるとなると、少なくとも英仏独の三ヶ国語、通常はこれに加えて古典語その他の言語を習得しないと世界レベルの仕事はできない。国文学や日本史に専門を限定しても、本格的にやるのなら当然世界のことを知っていなければできない理屈で、そうなれば英語の論文も読まねばならず、また英語の論文にある引用などは基本的に原語のままのことが多いので、この面でもいくぶんかは語学者たらざるをえない。

というわけで、知的な分野で活躍するために英語が必要なのはいうまでもなく、しかもその一部では英語以外にもなお数ヶ国語を知らねばならない。そんなことはすでに常識なので、わざわざ望夫先生に説教されるまでもないのである。

ではそういった一部の知的エリート以外の人々に英語は必要か、といえば、もちろん必要ではない。望夫先生は今後英語が世界を支配するたとえとしてラテン語を例に引いているが、むかしのヨーロッパでもどれだけの人がラテン語を自由に読み書きできたか知っているのだろうか。私のあてずっぽうでいえば、それは全人口の1パーセントにも満たないものだったのではないかと思う。なにしろヨーロッパでは近世にいたるまで自国語さえ読み書きできない人がざらにいたのだから。そんななかで聖職者をはじめとするごく一握りの人間のみがラテン語を使っていたので、ラテン語の汎ヨーロッパ性をそのままこんにちの英語の世界性に関連づけるには無理がある。たとえこの類比を推し進めるにしても、それはつまり英語のエリート性を強調することにしかならない。そして、むかしのヨーロッパの大多数の民衆にとってラテン語が必要なかったように、こんにちの世界の民族の大多数にとっても英語は必要ではない。

望夫先生は、夏目漱石級の才能の持主がいま生まれてきたとして、彼は将来日本語でものを書くようになるだろうか、という疑問を出している。これもよくわからない話で、漱石クラスの人間ならいまでも続々と生まれてきているだろう。ただしそういう人間が表現の手段として文学を選ぶか、となるとかなり疑問で、それというのも文学が社会に対してもっている意味合いが明治時代とこんにちとではぜんぜん変ってしまっているからだ。おそらく今後は才能のある人は小説なんか書かないだろう。書いてもだれも読まないだろうから。

長々と書いてきたわりには結論らしいものは出なかったが、とりあえずアップしておく。