ストリンドベリ「死の舞踏」
アマゾンからストリンドベリの「死の舞踏」の紹介メールがくる。なんでいまごろ私のところへ「死の舞踏」への招待が? それにはアマゾンなりの理由があるんだろうが、それはともかくとしてこの戯曲、大昔に読んだ記憶をたどってみると、主人公がなんとなくサイコパス臭かったような気がする。それならいま読み直す価値があるのではないか、と思って白水社の「ストリンドベリ名作集」を取り出して読んでみた。
案の定、主人公のエドガーはまごうかたなきサイコパスである。こんなところにサンプルが転がっていたか、と嬉しくなったが、しかしエドガーの性格や行動は、「死の舞踏」をサイコパス演劇として位置づけるにはちと弱い。なんといっても死にかけの老人なので、いくら「悪魔」とか「吸血鬼」とか呼ばれても、それにふさわしいだけのデモーニッシュな迫力がないのが決定的な弱点だ。
しかしこの本を読みながら気がついたのだが、吸血鬼というのは、数ある化け物のうちでも飛びぬけてサイコパス度が高いのではないか。狼男も、フランケンシュタインの怪物も、ミイラ男も、よくよく考えてみれば禽獣に類するような知能の低い生き物で、それ自体としてはあまり怖くない、少なくとも形而上的恐怖の対象ではない。それに比べると、吸血鬼は存在そのものが「悪」の問題と不可分に結びついているので、形而上的にも恐ろしい化け物になっているように思う。
とはいうものの、いまでは吸血鬼イコール悪の化身という図式があまりに一般化しているので、もう吸血鬼で怖がらせるのは無理なんじゃないかという気がする。吸血鬼にかぎらず、古典的な化け物はパロディという形式で細々と生きながらえるのが関の山だろう。私もいまさらそういったものを読もうとは思わない。唯一の例外はプレストのヴァーニー*1。
そういえば、ストリンドベリは当初この戯曲に「吸血鬼」という題をつけるつもりだったらしい。「吸血鬼」ではなく「死の舞踏」にしたのは正解だったと思う、これだってかなり羊頭狗肉だが。
*1:ネットに英文のテクストはあるが、これを読み通すのはかなりきつい。ダイジェスト版ですますのもくやしいし、だれか翻訳してくれないかな、私が生きているうちに