田宮虎彦「小さな赤い花」


少女愛文学の九冊目(昭和36年、光文社)。

これはすごい、を十回くらい繰り返したくなるような小説。なんというか、私の心の琴線をめちゃくちゃにかき鳴らしてくれる。こういう傑作がさりげなく出ていた六十年代はやっぱり偉大な時代だった。小説一般にはあまり詳しくはないが、どうも日本の近代小説は三島由紀夫の死とともにいったん死んでしまったのではないか。それからしばらくたって、両村上が出たあたりから、現代小説は新たなフェーズに入ったようだが、それは残念ながら私のような旧弊人の歯にあうものではない。要するに自分にとって小説らしい小説は1970年前後でストップしてしまったようだ。それ以後、表現の主たる媒体は小説ではなくなり、マンガへと移行したのではないか。

少女愛という面からみたら、この小説はおそらく読者にあまり満足は与えないだろう。というのも、主人公はまだ小学校にもあがらないような子供だし、いっぽうの少女も美少女というにはほど遠い。しかし、この二人の孤独な子供の出会いと別れは、たんなる小説中のエピソードとしても、読み手に深い感銘を与える。それは、位相はちがうが、マルセル・シュオッブの「モネルの書」*1の第三部を彷彿させる。そしてそのエピソードを象徴的にあらわしているのが題名にある「小さな赤い花」だ。

あとから考えてみれば、主人公の少年は母を病気でなくしてから、すでに死の手に委ねられていたのではないか。死神はぶきみな「遠い音」になって少年を追っかける。少年は母の思い出を唯一のよすがにして、その死の手を振り切ろうと逃げる。少女との小春日和のようないっときのあと、死神は追い討ちをかけるようにぐんぐんと迫ってくる。そしてついに山の「沼」へと少年を呼び寄せ、そのなかへ彼を引きずり込む。

しかし、この沼は死の国であるのみならず、母の国でもある。母乳のような白い靄のたちこめるなか、幼い性へのあこがれの象徴である赤い花でいっぱいになった沼に母の幻影があらわれて、少年を静かに手招きする。そして少年は意を決したもののように沼のなかへみずから入っていく。……

この小説の時代設定はおそらく明治か大正あたりだろう。出てくる小道具がいちいち古めかしく、しかも貧しくてみすぼらしい。しかしこの貧しさ、みすぼらしさが、小説のなかではかえって豊かなものとして輝いてみえる。子供たちがのどから手が出るほどほしがっているお菓子は、たとえば飴玉であり、変わり玉であり、しょうが板であり、ごまねじであり、アンパンである。スイーツ(笑)時代からみればばかばかしいようなものばかりだが、私にはこういうもののほうがずっとおいしそうにみえる。

あと、ぜひ書いておきたいのは、この小説に描き出された雰囲気が、なんとなく映画「田園に死す」や「初恋・地獄篇」を想起させることだ。ああいうものが好きな人にはきっと楽しんで読んでもらえると思う。

*1:これまた少女愛文学の不朽の名作