モンゴメリ「赤毛のアン」

sbiaco2008-01-18



少女愛文学の八冊目(村岡花子訳、新潮文庫)。

いまさら「赤毛のアン」なんて……と思っている人は多いだろう。私もそうだった。といっても、この「いまさら」には二通りの意味がある。ひとつは、子供のころ読んでおもしろかったが、それをいまさら云々するのは……というもので、もうひとつは、読んだことはないけれど、あまりに有名なのでいまさら読むのも……というもの。

私の「いまさら」は後者。なにしろ「赤毛のアン」ときいただけで一定のイメージが脳裏に浮かんでしまうのだから。ところが本書を一読するにおよんで、これがまったくのイリュージョンだったことが判明した。私はアンの小指の先っぽすら知らなかった。

私は子供のころ学校などですすめられる児童文学をほとんどといっていいほど読んでいない。あとから考えてみるとだいぶ損をしているようだが、しかしそういう幼少時の読書の貧困のせいで、この年になって児童文学のおもしろさを味わえるのだから、これはもう一種の特権を与えられたようなものではないかと思う。心の貧しきものは幸いなり、というのはこういうことをも指すのではないか。

この小説があたってから、作者は次々とアン・シリーズを書きついでいったらしいが、けっきょくのところ、アンのすべてはこの第一作に集約されているような気がする。なによりもアン自身がこういっている。

「(成長したアンをかつてのみすぼらしい少女の姿と二重映しにして感傷にふける養母に対して)あたしはちっとも変わってはいないわ──ほんとに、いつもおなじアンよ。ただ刈り込みをしたり、枝をひろげたりしただけなの。ほんとうのあたしは──そのうしろにいて──おなじなのよ。あたしがどこへ行こうと、外側がどんなに変わろうと、ちっともちがいはないのよ……」

古典的な少女文学にとどめをさすような稀有の傑作(1904年作、1908年初版)。


(補足、1/19)
子供のころなにか児童文学の本(題名を忘れた。いずれにしても「フランダースの犬」か「アンクル・トムの小屋」か、そのあたり)を買ってもらったとき、母がそれを読んでしきりに「翻訳がへたくそだ」といっていた。その訳者が村岡花子だった。以来、私は無意識のうちに彼女の訳を避けるようにしてきた。子供のころに植えつけられた偏見というのは抜きがたいものがある。

さて今回、特殊なアプローチから彼女の「少女パレアナ」と「赤毛のアン」とを読むことになって、その翻訳がわるくないばかりか、むしろ非常にすぐれたものであることを「発見」した。訳文の自然さ(それは半世紀たったいまも失われてはいない)と全体をつらぬく雰囲気のコンティニュイティがすばらしい。

いったい母はなにをもって彼女の翻訳を「へたくそ」ときめつけたのか。

おそらく母が子供のころに親しんだ(そして子供向けに自由にリライトされた)本とのギャップがその理由ではなかったか。それ以外には考えようがない。

というわけで、長いこと無視してきてすみません、と村岡花子の霊に謝りたい気持だ。彼女の思い出のために、「赤毛アン記念館・村岡花子文庫」というのが作られている。写真で見てもじつにいい感じだ。仕事机に向かう彼女の姿には、なんというか文豪のような風格さえただよっている。


(追記、1/20)
主人公のアンは、Annという名前が不満で、Anneと書いて(あるいは呼んで)ほしいといっている。フランスふうにアヌ(あるいはアンヌ)と呼ばれることを望んだのだろうか*1。しかし「赤毛のアンヌ」ではなんか変だ。アンはやっぱりアンという歯切れのいい名前のほうがいい。

赤毛のアン」が出たのは1908年だが、翌年、日本でもAnneが生まれている。いうまでもなく森鴎外の次女杏奴だ。のちに小堀氏に嫁いだので小堀杏奴という名で知られている。鴎外はこの次女をひどくかわいがって、杏奴を呼ぶのに「あんぬこ、ぬこ、ぬこ」などといっている。文豪も子供には甘かったとみえる。鴎外一家でひとつ家庭小説ができそうだ。

余談だが、鴎外には夭折した半子(はんす)という子供がいる。私はこの半子という名前が気に入って、ふたりめの甥が生まれたとき、半子はどうかと提案したが断られた(当然だ)。


(追記2、同日)
子供で思い出したが、新聞など一部で「子ども」という表記がみられるのを前からふしぎに思っていた。で、検索してみると、どうやら「供」の字がいかんといきまいている人々がいるようだ。「供」は「お供」の供だから侮蔑語にあたる、というのがその主張らしいが、バカも休み休みいってもらいたい。子供の供はどう考えても子を複数あつかいする語尾ではないか。特定の子供ではなく、子供一般をあらわすのが本来の「子供」の意味ではないか。これを逆にいえば、「子供」というのはもともと集合名詞であって、おのおのの子供の独立性はそれだけ低かったということになる。「女子供」という言葉があらわすように、成人男性中心の社会では子供は一人前の扱いを受けなかった。その名残が「子供」という言葉にあらわれているので、もし侮蔑語うんぬんというのなら、「こども」という言葉そのものが子供を侮蔑した表現だということになる。それを「供」だけかな表記すればいいと思っている人々は、どこか根本的なところで勘違いをしているとしか思えない。

*1:英語の名前では、語尾にeがついてもつかなくても発音には変りはない