萩尾望都「トーマの心臓」


彼女の「ヴィオリータ」を読もうと思って探したら、「トーマの心臓」所収となっていたのでこれを中古で購入。で、先にこれだけ読んだ(小学館、1978年)。

少女マンガにあまり慣れていないせいかもしれないが、このマンガ、とてつもなく読みにくい。何度も行きつ戻りつしながらでないと読めない。暗示的な描写が多いので、どうしても「この絵はなにを意味しているのか?」と考えてしまう。ふつうのマンガだと30分ほどで読んでしまうけれど、この二冊を読むのに何時間もかかってしまった。それだけ密度が高いということもできる。

このマンガを読みながら思ったのは、意外とエドガー・ポオの「ウィリアム・ウィルソン」に近いお話なのではないか、ということ。つまりトーマはユーリの良心であり、エーリクはトーマのドッペルゲンゲルすなわち影なのではないか。ポオの小説では善玉ウィルソンと悪玉ウィルソンとの二人だけだったが、このマンガでは本体ひとつに分身がふたつと、都合三つの人格があらわれる。それだけ手がこんでいるというわけだ。

分身による救済の物語ということでは、松本大洋の「ピンポン」なんかとも共通する。マンガにおいてこういうのはひとつの普遍的なテーマになっているのだろうか。

このマンガに出てくる重要な脇役としてオスカーがいる。この少年はもうひとりのオスカー、すなわち「ドリアン・グレイの肖像画」の作者を思い起こさせる。このあたりが同性愛ものに特有の「あの」雰囲気をかもし出していて私には興味ぶかかった。

「あの」といっても、昨今はやりのBLとはあまり関係がない。


(追記、4/22)
下巻の巻末に入っている「ヴィオリータ」を読んだ。ちょっと「ジェニーの肖像」を思わせるようなSF的な物語。ゆうに一冊の本になりそうな題材を極度に圧縮した、短篇というよりエスキスと呼びたい作品。

ヴィオリータは永遠に少女なるもの(das Ewig-Jungfraeuliche)の表象で、それは男の夢のなかで永劫に回帰する。彼女はまた時空を超えて遍在する少女のイデアであり、イコンでもあるような存在だ。

「見たり見えたりする/一切有は夢の夢にすぎませぬか」。そんな詩句がふと思い出される美しい作品。

……というのは明らかに褒めすぎで、私にはあまりピンとこなかった。ピンとこないといえば、萩尾さんのマンガはどれを読んでも表面のところではじき返される。アンペルメアブルというか、内部への参入を拒絶されるようなところがある。私は対象がなんであれ、侵すことによって侵されたいという気持があるので、彼女の作品とはちょっと相性がわるいみたいだ。