フィヒテ「全知識学の基礎」(下)


この本はあとになればなるほどむつかしくなる。第一部「全知識学の根本諸命題」がわりあい明快だったので安心していたが、とんだ誤算だった。おかげで読むのにひどく暇がかかってしまった。しかし、これは読んでいいことをしたと思う。

フィヒテ哲学史的にはカントからヘーゲルへの橋渡しの役割を果したということになっている。しかしヘーゲルをほとんど知らない自分にとってはこの説明はあまりぴんとこない。むしろシュティルナーの自我主義に強固な地盤を与えるものとみるほうが自分にとっては納得がゆく。第二部における「構想力」の称揚、第三部における「絶対的能動性」の感情への適用などをみていると、これははるかにフロイトを予告するものではないか、とさえ思われるほどだ。

ところで、知識学の基礎とはなにか。これを乱暴にひとことでいってしまうと、「事行としての自我」になるだろう。「事行」とはTathandlungの訳語だが、あまりうまい訳語とはいいがたい。というのも、TathandlungとはHandlung(行為)とTat(結果)とが合一した状態を指すことばだからだ。つまり定立するものと定立されたものとが一にして同一であるという自我の特異なありかたを指しているわけだ。これがこの本の起点であり、終結点でもある。

この原理を展開するにあたってフィヒテが援用するのが交替限定(Wechselbestimmung)という法則で、これは平たくいえば「ニワトリが先か、卵が先か」という問題にあらわれるような循環論を克服するための考え方。ヘーゲルジンテーゼに近い(そしてじっさいsynthetischという用語が使われている)けれども、ヘーゲルと違って発展的な契機はほとんどみられず、対立するものをその交替作用においてその場で揚棄する試みのようだ。これはさらに「能所交替」(Wechsel-Tun und Leiden)として定式化、一般化される。……

この本はいちおう原理から出発して、理論篇、実践篇へとすすむという点ではカントの哲学を思わせるが、じっさいは実践から原理へと逆順的に(帰納的に?)思索が行われたのではないか、と思ってしまうようなところがある。というのも、本書の最後のほうに、「この様にして……自我の活動の仕方は一周され論じ尽されている」とあるけれども、あまり「論じ尽され」たという感じはしないからだ*1。それどころか、この円環はふたたび最初に戻って「われ存在す」からまた始まるのではないか、という気さえする。こういうふうな本書のありかたにも魅力を感じる。

*1:じっさい、最後のほうは尻切れとんぼに終っている