西田幾多郎「善の研究」


西田によるフィヒテの訳書の「序」の文体が気に入ったので買ってみた(岩波文庫)。その「序」というのは、こんな感じの文。

「……併し大思想家の書を我国語に訳することは、単に他国語を知らざるものをしてその思想を理解せしむるのみでなく、我国語をしてその思想家の思想を語らしめることによって、その思想に言表的生命を与え、その思想をして我国に於て郷土的発展をなさしめることでなければならぬ。……フィヒテの訳はフィヒテを日本的に歪めるかも知れない。併しそれは一方から見れば却ってフィヒテを郷土化することでなければならない」

内容はともかく、カッコいい文体だとは思わないだろうか。

で、この「善の研究」だが、読みはじめて気づくのは、その文体が意外なくらいあっさりしていることだ。それもそのはずで、この本はもともと著者の講義ノートをまとめたものらしい。そういったものなら、余計な文飾がないのもうなずける。私としては悪名高い「西田の悪文」を期待していたのだが……

記述のほうもじつにあっさりしている。フィヒテ式の、ひとつのテーマをあらゆる面からこねくりまわすしつこさはまったく感じられない。こんなに簡単にすませていいんですか、と訊きたくなるほどのもの。西田の哲学というのは、ドイツ式の論理で構築していくタイプのものではなく、英米式の俯瞰的、図式的なタイプのものではないかと思った。

それでもいちおうは第二篇で理論的分野を、第三篇で実践的分野を扱っていて、全体としてひとつの体系にまとめあげている。フィヒテを読んだあとだからそう思うのかもしれないが、どうも西田の背後にはフィヒテの理論が見え隠れするようだ。それは対立物の一致というか、矛盾を矛盾のまま統一する次元を「総合」として認める立場にあらわれている。そしてその「総合」を担うのが、著者のいわゆる「純粋経験」だ。

純粋経験」とは、ひとことでいえば幼児の経験のこと、主客未分であり全能であるような自己に起ってくる経験のことだ。拡大解釈すれば、それは「野生の思考」ということもできるだろう。西田の思想はそういう失われた全能の自我を回復しようとする試みであって、「善」とはそういう真の自我の発展の極致のことなのである。

このあたりから、西田の思想は暴走しはじめる。「自己実現」という言葉がすでにうさんくさい。この言葉が現在にいたるまでカウンセリングなどで頻繁に使われているのは周知のとおり。西田は個人の自己実現(=善)を集団(つまり国家)の自己実現に拡張する。さらにはこれを宇宙規模にまで拡大する。宇宙とは神の自己実現の謂である。かくて、個人の自己実現は、究極的には宇宙の本質、つまり神と一体化することでなければならない。……

いろんな哲学者の学説(というか隻語)を自説につごうのいいように援用するあたりもちょっと危ない。これを読んでいると、黒岩周六(涙香)の「天人論」を思い出す。擬似科学を心霊現象に適用するのは、古今を問わず新興宗教によくある手ではないだろうか。ああいった臭味が西田の本にも濃厚に感じられるのだ。

「神が宇宙の統一であるというのは単に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のように具体的統一である、即ち一の生きた精神である。……かくの如き神性的精神の存在ということは単に哲学上の議論ではなくして、実地における心霊的経験の事実である。我々の意識の底には誰にもかかる精神が働いているのである」(本書232ページ)

オカルトを「個の宗教」と定義できるとすれば、西田はまごうかたなきオカルティストだ。しかし、そういう西田に嫌気がさすかといえばその逆で、この本を読んで西田という人に前にもまして興味をもつようになった。この本ではなによりもまず西田の「やさしさ」に触れることができる。それは例として引かれる動物や植物に関する記述に顕著だ。このやさしいまなざしはそれだけでも魅力的だと思うのだが、どうだろうか。