シラー「美と芸術の理論──カリアス書簡」


岩波文庫の美学の三冊目。訳者はヴォリンゲルの本と同じく草薙正夫氏。

シラーには「素朴文学と情感文学」という本があって、それの訳本をもっているはずなのだが、どこを探しても出てこない。やむなくこの「美と芸術の理論」を手にとった次第だ。これはシラーが友人にあてた書簡をいくつか集めたもので、もとより体系的な美学書ではないが、シラーの美学の理論の根幹をなすものではあるらしい。

シラーとしては、カントによってカントの上に、つまり、おもに自然美を扱っているカントの美学を芸術一般に拡張しようというのがその意図だったと思われる。そのために、いくつかの概念を定式的に使っているのだが、どうもそれらの定式が前後でいささか矛盾しているように感じられる。これはシラーが自分の本来もっているオリジナルな考えを、むりやりカントの美学に沿わせようと努力した結果ではなかろうか。

しかし、この本からカント流の超越論的思考を取り去ってしまうと、ただの素朴で月並みなロマン派的美学が残るだけになってしまう。それはたとえば「美とは、現象における自由にほかならない」といったテーゼに端的にあらわれている。ここでは美そのものの解明よりも、現象における自由、あるいは自由そのものに対する讃美のほうが前面に出てきている。こうなると、美というものはカントふうに判断力に結びつくものではなく、むしろ実践理性に結びつく道徳的なものになってしまうのではないか。

自分の意見をいえば、美というものは倫理と結びつくことはあっても、道徳とはあまり関係がないのではないかと思う。たとえ道徳的な行為が自由の最高のあらわれだとしても、それだけでそれがただちに美であるというわけではないからだ。カントも美の問題を考える上で、実践理性だけではその意をつくせなくないことを悟って、判断力なる概念をもちだしたのではなかったか。

それはともかくとして、この本の最後のほうに、ManierをStilと対立させている箇所がある。で、シラーは断固としてManier をしりぞけ、Stil を優先させているのだが、現象における自由を讃美しながらも、Manierを貶めざるをえないところに、古典派とロマン派との双方に引き裂かれたシラーの姿をかいまみるような思いがする。ちなみに訳者はこのManierに「自己流」という訳語をあてている(Stilのほうは「様式」)。