まぎらわしい言葉


きのうは連休前のせいか、道がかなり込んでいた。自分の前をのろのろと走るVitzという車を見ているうち、あるフランスの小話のことを思い出した。

新婚の花嫁に向かって、「あなたは夫を愛していますか」とだれかが訊いた。花嫁はそれにこたえて「Evidemment!」と大声でいった。みんな大笑いした。

話はこれだけ。

Evidemment(エヴィダマン)はふつうには「もちろん」という意味だが、音だけきくとet vit d'amantという意味にもなる。つまり「愛人のvit(あれ)も(愛しています)」という落ちになるわけだ。

しかし、これをあるフランス人に説明すると、evidemmentとet vit d'amantとは発音がちがうから取り違えることはないという。そうかなあ。辞書でみるとまったく同じ発音なのだが。抑揚がちがうのかしらん。

まあいいや。次は倫理と道徳。スピノザの「エチカ」には「倫理学」という邦題がついている。アリストテレスのもやはり「倫理学」だ。一般にエチカには倫理(学)という字をあて、モラルには道徳(学)の字をあてるのがいまのやり方だろう。しかし、プルタルコスの「モラリア」は「倫理論集」と訳されるから、あまり厳密な区別はないのかもしれない。カントの道徳(Sitte)もどっちかといえば倫理のほうだろう*1

私は自分なりに倫理と道徳とを区別している。このふたつ、どうちがうかといえば、そのよって立つ地盤というか背景が異なる。道徳が社会的なものを地盤にしているのに対し、倫理は存在論的なものを地盤にしている。平たくいえば、道徳が対人間だとすると、倫理は対神あるいは対自己なのだ。道徳は水平、倫理は垂直といってもいい。

ついでに経験と体験についても書いておこう。このふたつ、日本語やドイツ語では区別されるが、英語やフランス語では区別されないようだ。これが誤解を生むそもそもの遠因になっている。ある人のいう経験は、べつの人のいう体験だし、逆もまたしかり。こういうのを見ていると頭が混乱してきて、どっちがどっちだかわからなくなってくる。

これらに対してさっきの道徳に関する基盤をあてはめてみると、どうも経験は社会的、体験は存在論的、といってもいいのではないかと思う。しかし、この考え方にまっこうから反対している人もいる。たとえば森有正。彼の考え方ではこのふたつの関係はまるきりあべこべになっている。とはいっても、彼の体験、経験に関する話は傾聴するにたるものだった。もう一度おさらいしたいが、残念ながらどこに書いてあったか失念した。

ほかにまぎらわしい言葉といえば、漸次と暫時、喧々囂々と侃々諤々などがある。こういうのは、知ったふりをしてうかつに使うとてきめんに間違える。


(追記)
まぎらわしいといえば、こんな詩がある。

Gal, amant de la reine, alla, tour magnanime,
Galamment de l'arène à la tour Magne, à Nimes.

ネット上にあったので拝借してきた。二行が同じ音でできている詩。伝ユゴー作ということになっていたが、どうも真の作者はマルク・モニエという人らしい。当該ページにはほかにもいろいろholorimeの例が出ているから、興味のある人はごらんください。

ちなみに、ニームにはアレーヌ(アリーナ、円形闘技場)もマーニュの塔もじっさいにある。アリーナはりっぱだったが、マーニュの塔は石でできた小さい櫓みたいな感じでがっかりしたことを覚えている。

*1:モラルという言葉は多義で、ここで説明しているとそれだけで記事ひとつぶんくらいにはなるから、そっちには踏み込まないことにする