バッハ「クリスマス・オラトリオ」

sbiaco2006-02-12



クリスマスに聴こうと思って発注した「クリスマス・オラトリオ」が、遅れに遅れていまごろ届いた。そういえばそんなものを発注したっけ、と自分でもほとんど忘れかけていたくらいだ。手に入れたのはミュンヒンガー盤で、バッハの主要な宗教曲はミュンヒンガーのもので揃えたいと思っている。理由はいたって単純で、アメリンク女史が参加しているという、たったそれだけのことだ。

バッハの曲で聴くたびにクリスマス気分を喚起されるものに、ミサ曲ロ短調の2曲目があげられる。これはラッパと太鼓とが入っているせいだろう。この「クリスマス・オラトリオ」の冒頭の合唱も同じような曲調で、ラッパと太鼓とがこれでもかとばかりに鳴り響く。それを縫うようにして細かい音符が天使の飛翔のように舞い上がる。もう冒頭のこの一曲だけでがっちりと心をつかまれてしまう。

このように、バッハの曲は有無をいわさず聴き手の心をつかむ力があるが、一方で意外に飽きられやすいという特徴もある。自分に限ったことかもしれないが、バッハの曲は、数回聴いたあたりが感動のピークで、以後は聴けば聴くほど当初の感動から遠ざかっていくような気がする。底が浅いというわけではない。その証拠に、記憶のなかで鳴るバッハはつねに魅力的に響く。ところが、かねて親しんだ演奏にじっさいに接してみると、その魅力が嘘のように消えてなくなってしまっていることが多い。

そこでだれでも思いつくのは、べつの演奏者のものを聴けばまたあの感動がふたたび味わえるのではないか、ということだ。しかし、私の乏しい経験からいえば、なじみになった曲をべつの演奏者で聴くのは労多くして報われるところははなはだ少ない。さんざん遍歴を重ねたすえ、結局ははじめに聴いたものがいちばんよかった、ということになるのが落ちだ。そんなことにお金を使うくらいなら、まったく未知のCDを買ったほうがよほど気が利いている。

今回買った「クリスマス・オラトリオ」もいずれは飽きるときが必ずくる。その時期(それは感動のピークでもある)をなるべく先へのばすために、年に一度、クリスマスの時期にだけ聴くのが賢明なのだろうか。べつに題名に拘泥しているわけではないが、そういうCDが一枚くらいあってもいいような気がする。そうだ、これはクリスマス限定ということにしておこう。年末に第九を聴く習慣もない自分にはうってつけの年越し用のCDになることだろう。