イマヌエル・カント「美と崇高との感情性に関する観察」


上野直昭訳による岩波文庫(1948年初版)。これは題名の示すとおり「観察」であって、「考察」でもなければ「研究」でもない。もともとカントはきわめて無趣味な人で、自室には絵の一枚もなかったというから、そういう人の書いた美学が美学プロパーではなく倫理学におもむくのはごく自然ななりゆきだ。題名に「感情性」という言葉を入れたのはそのことに関連していると思われる。

この本はおそらくバークの論文に影響されて書かれたものだと思われるが、そのバークと比較しながら由良君美はこんなことを書いている。いわく、「われわれは、臆することなく美学者バークの卓越性を語ろう。……題までも物欲しげに酷似したカント『美と崇高の感情性についての考察』など、その後進国ぶりは気の毒なほどで、年代さえ書くのがはばかられる」と。

いくらわが仏尊しといっても、これはちょっとひどいのではないか。年代にしてもバークの本(「崇高と美の起源にかんする哲学的考察」)が1757年、カントの本が1764年で、たったの7年しか離れていない。7年の遅れをもって後進国呼ばわりされるのはちょっとカントには気の毒なように思う。

といっても、内容を読めば、由良の手厳しい評言もある程度までは仕方ないと思ってしまう。なぜならここでのカントは批判書のカントではないからだ。ここでのカントは、書斎でひとり静かに思索にふける哲学者ではなく、客間での座談の名手として語っている。この本は、そんな彼のある日のテーブルトークを書きとめたものなのだ。

カントの所論をおおざっぱにいえば、「美」は女の属性、「崇高」は男の属性ということになる。で、それが倫理の方面に適用されると、「崇高」は「勇気」となり、「美」は「優雅」となる。こんなことならわざわざカントにいわれなくても、われわれのところにも「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がある。ドイツ語でいえば、男はMut、女はAnmutということになるだろうか。

こういった何の奇もないテーゼが骨子になっているので、哲学的ないしは美学的に読めばつまらない本だということになるだろう。しかし先にもいったように、これをカントの客間における座談だと受け取れば、またべつの読み方ができる。なんといってもここではカントが柄にもなく(?)女性論を展開しているのだから。

私はこれを読みながら、ディ・クィンシーのことを思い出していた。ディ・クィンシーがカント哲学に傾倒したのは事実だが、その女性観(ひろくみて倫理観)においても両者は一脈相通ずるものがある。それはひとことでいって「女の王国」に対する信念と敬虔である。フェミニンなものに対する無条件の降伏と渇仰である。

考えてみれば、生涯童貞だったカントにこそ「独身者の機械」は必要だったので、そういったものの存在を垣間見せてくれるこの本は、美学書としての価値は別としても興味深いものだと思う。