ヴィヨンの詩の解釈について


先日ふれた「巴里幻想訳詩集」の月報に、南條竹則という人がヴィヨンの有名な「疇昔の美姫の賦」の末尾の四行詩(いわゆる反歌)について書いている。ここで南條氏が褒めている日夏耿之介の訳がすぐれたものであることは私としても異存はないが、それはそれとして、この四行詩はいったいどういう意味なのか、といわれれば、だれもはっきりとは答えられないのではないか。

ロセッティの英訳をもとにした南條氏の訳はこうだ。

さなり、この週に、うるはしき我が君よ、
かれらいづくにゆけると問ふなかれ、またこの年に、
問はんとならば、だたこれをひとつ歌にも繰返せ──
されどいづくにありや、去年の雪は、と。

これで意味わかります? ちなみにこの本に入っている他の訳をみると、

きみよ、このひとまはり、またこの年も
そのかみのひとはいづこと
問ひたまふともこの折返しうた
去歳降りし白妙の雪はいづこぞ
(矢野目訳)

覯(み)るひとよ、問ふ勿れ、これ等が末を、
今日の日も、かがなべて、年を経るとも、
故如何に、その故ぞ、繰言すなる、
あはれ、ふる年の、雪は今いづくに在りや! と。
(城、矢野目訳)

また鈴木信太郎の訳では──

わが君よ、この美しき姫たちの
いまは何処に在すやと、言問ふなかれ、
曲なしや、ただ徒らに畳句(ルフラン)を繰返すのみ、
さはれさはれ、去年の雪、いまは何処。

ついでにネットで見つけただれかの訳

もはや知ることを欲せざれ
いにしへひとの行方と 過ぎにし時とを
唱へや唱へ ルフランの調べ
こぞの雪 いづこに去にしと
いにしへひとのバラード:フランソア・ヴィヨン

これだけあげておけば十分だろうが、けっきょくのところ、どれひとつとして「正しい訳」をやっていないのは注目に値する。いずれも「訳し曲げ」しすぎなのだ。

どうしてこうなるかといえば、たぶん原文が意味不明だからではないだろうか。意味不明といえばいいすぎかもしれないが、たぶん現代のフランス人に訊いてもその解釈は各自でまちまちではないかと思われる。

原文をあげれば、

Prince, n'enquerez de sepmaine
Ou elles sont, ne de cest an,
Qu'a ce reffrain ne vous remaine:
Mais ou sont les neiges d'antan?

ジャン・デュフルネという人の解釈は以下のとおり(ガリマール社のポエジー双書より)

Vous ne saurez demander de toute cette semaine, ou elles sont, ni de toute cette annee, sans que je vous ramene a ce refrain.

直訳すると、「私があなたをこのリフレイン(去年の雪いまいづこ)に導くことなしに、あなたがこの週に、この年に、彼女らがどこにいるかを尋ねることはできないであろう」となる。が、これもまたひとつの解釈であって、絶対的なものではないだろう。

しいて訳せばぐだぐだになってしまいそうなこの一節を、「ふるとしの雪やいづくとあざかへし、このとしこの日趾とふなゆめ」という短歌の形式にまとめた日夏はさすがにえらかったというべきかもしれない。