スピノザ「エチカ」(上巻)


畠中尚志訳の岩波文庫。題名に「幾何学的秩序に従って論証された」とあるとおり、はじめに定義と公理とが書き出してあって、本文は定理と呼ばれるいくつもの命題の連鎖とその証明からなっている。こういうもったいぶった書き方のせいで、この本はひどくとっつきにくいものに見えるかもしれないが、じっさいはそれほどめんどくさいものでもなく、読みにくいものでもない。慣れればふつうの論文よりもむしろ見晴らしがきくくらいだ。というのも、命題が細かく分けられているから、さかのぼって参照するときに検索が非常にやりやすい。それに同じ箇所を何度も読むことになるから、先にわかりにくかったこともあとから理解できるようになる。なによりも部分が全体と有機的に結びついていることが実感される。いいことずくめではないだろうか。

それにしても、この本のもつ深い魅力はいったいどこからくるのだろう。それはさっきも書いたように、部分と全体とが有機的に結びついているからだろうか。この本だけで一箇の小宇宙のようになっているからだろうか。

スピノザライプニッツとよく並べて語られるが、資質としてはまったくちがう。ライプニッツもやはり体系の人ではあるけれども、論述の仕方が開放的、断片的で、もっとはっきりいえば「……の余白に」といったタイプの論文を得意としていたのではないかと思われる。「……」のところに、適宜デカルトが入ったり、ロックが入ったり、アリストテレスが入ったりするわけだ。それに対してスピノザはもっと閉鎖的、体系的だ。この資質のちがいは、ライプニッツ南方熊楠に、スピノザ柳田国男になぞらえてみればよりはっきりするのではないか。もちろん、どちらがすぐれているかというような話ではない。心臓と同じように精神も収縮と拡張とを必要とするからだ。

さて、この本(上巻)でいちばんおもしろいところはといえば、なんといっても第一部の「神について」だろう。この前の日記にも書いたけれども、スピノザは神を実体(substantia)として、あらゆるものの下に立つものと考えていたようだ。しかもそれは形相をもたない。形相をもたずにあらゆるものを下から支えているものとは、つまるところ最広義の自然にほかならない。いたるところに中心があって周囲がどこにもない円という神の定義(ニコラウス・クサーヌスによる)を推し進めていけば、ここに到達するしかないだろう。これは仏教の大乗の考え方にも通じるものがあると思う。神はいわば万物がその上に乗って活動している無限に巨大な乗り物なのである。

このような汎神論的な考え方のせいでスピノザ無神論者扱いされたというが、キリスト教にとっては汎神論は無神論よりもなお質のわるいものだったのではないだろうか。無神論は有神論の否定であり、あくまでも人格神を前提にしているが、汎神論のほうはそれを飴のようにやわらかくして、全自然にまで拡散してしまうのだから。

とにかく、こういう点をとってみても、スピノザは日本人(あるいは広く東洋人)には親しみやすい思想家だと思う。

そういっても、一切が神の変状であると説くスピノザは自由意志というものを認めない。たとえばビュリダンのロバについてはこうだ。

「もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、彼がブリダンの驢馬のように平衡状態にある場合にはどんなことになるであろうか、彼は餓えと渇きのために死ぬであろうか」という問に答えて、彼はこういう、「そのような平衡状態に置かれた人間(すなわち餓えと渇き、ならびに自分から等距離にあるそうした食物と飲物のほか何ものも知覚しない人間)が餓えと渇きのために死ぬであろうことを私はまったく容認する」と。

自由意志論に対立するものに機会原因論というのがある。スピノザはマルブランシュ以前に機会原因というものに想到していたのだろうか。ありえない話ではないが、上巻を読んだかぎりでは、それを示唆するものは出ていないようだ。