失恋の痛手とダウソンの「シナラ」


まったく悪意のない第三者のことばがある人の心の古傷をうずかせ、血を流させることがある。ちょっと前にはてなで話題になった一連の騒動のきっかけがこれだったが、それに近いことが自分の身にも起こるとは思わなかった。私の場合は失恋の痛手なので他人には滑稽にしか見えないだろうが、この、他人から見れば滑稽、自分から見れば悲惨というのはよくあることだ。自分の悲痛な思いを他人に共感させるというのは至難のわざである。

ともあれ、こういうときにきまって思い出す詩がある。アーネスト・ダウソンの「シナラ」がそれだ。テキストはこちらを参照してください*1

各詩節の終りの三行がなんともいえない。これは非モテによる非モテのための詩として古今に絶する出来映えではないかと思う*2

この詩には矢野峰人による名訳があるが、いまそれを取り出して読んでみると、どうもあまり心にひびかない。「われはわれとてひとすぢに 恋ひわたりたる君なれば」というリフレインもうまいとは思うけれどもただそれだけだ。思うに外国語で読む詩のおもしろさは、こちらがその外国語に不慣れなために、かえってイメージが限定されないところにあるのではないだろうか。


(付記)
今年の5月に岩波文庫で「アーネスト・ダウスン作品集」というのが出ていることをネットで知った。この本では訳者は「シナラ」の翻訳をあきらめて、かわりに矢野峰人の訳を推しているらしい。が、上にも書いたように、この名訳をもってしても原詩の趣は十分に伝わらない。「古今に絶する出来映え」といったのも過褒ではなかったことになる。

*1:はじめは全文をここに掲載していたが、どうも読みにくいようなので、リンクにかえた

*2:逆にいえばそういう傾向のないひとには退屈きわまる詩なわけだが