「ピブラック」について


きのうの日記はあまりのばかばかしさに削除してしまったが、そこで言及したピエール・ルイスの猥褻詩「ピブラック」について検索してみると、なんと、この長大な詩を訳してブログで公開している人がいた。しかも念入りに韻まで踏んで。よくもやったな、と感心するが、訳詩そのもののできばえについては無条件で賞賛をおくるわけにはいかない。

リンクはこちらから→http://love.ap.teacup.com/applet/pybrac/archive?b=240

さて、「ピブラック」を書いたルイスの意図はなんだったのだろうか。サド侯爵やクラフト=エビングみたいに性倒錯の総目録をつくろうとしたのだろうか。そこまでいかなくても、少なくとも世紀末のパリにおける性風俗を総括してみたい、という意図だけはもっていたのではないか。それがルイスの個人的な体験を反映したものか、あるいはたんに頭のなかで妄想しただけのものかはべつとして、そういうエンサイクロペディックな関心はもともとルイスの持分だったように思う。

だからこの詩に価値があるとすれば、それは詩としての形式よりも、むしろ風俗の鑑としての面において顕著だといえるだろう。われわれは色あせた風俗写真をみるような目でこの詩を眺めなければならない。そんなふうにして百年前の頽廃的なパリに思いをはせるのがこの詩のただしい鑑賞のしかたではないかと考える。

となれば、いくら韻をふんで訳すといっても、ネットに出ているようなものではとうてい満足できるわけはない。これではまるでねじめ正一の脳膜メンマではないか。そういう効果(アルジャーノン効果?)をねらっているのなら、いっそのこと各詩節冒頭の「ぼく 見たくない」を「ボク 見たくなああああい」とでもすればよかったのでは、と思ったりする。

じゃ、おまえならどう訳すんだ、といわれるかもしれないが、私にはこんな長大な詩を訳しているひまはない。それにどうせ訳すのならむしろ閑却されている(?)「ドゥーズ・ドゥーザン・ド・ディアログ」を選びたい。これはビデオ・クリップなき時代の「字で読む」ビデオ・クリップ集として秀逸なものだ。