花と女と


詩の話ばかりで恐縮だが、詩人の日夏耿之介に「唐山感情集」という漢詩の訳詩集があって、その巻頭を飾るのが清の馮雲鵬の「二十四女花品」というもの。二十四種の花をとりあげて、それを女に見立てて歌った連作である。これには訳者による小引がついていて、そこに「西でフランスの解人グルモン氏が、むかしの花きのふの花のリタニイを謳へば、云々」とある。「むかしの花」というのは、上田敏が訳して牧羊神に収めたレミ・ド・グールモン散文詩のことで、青空文庫にも入っている。

これの原文が仏ガリカにあったので、それを見ながら上田敏の訳詩を読み、かつ花の名前で検索をかけて出てきたページ(ウィキペディアが主だが)を眺める、ということをやっていた。非常に無益な時間の使い方である(いいかえれば贅沢ということだが)。

そうするうちに、いままで気づかなかったことに気づいた。

というのは、グールモンのこの詩がひどくエロチックなものだということ、そして上田敏はそのエロ成分をきれいに消し去って、お上品なものに仕上げていること。

もともと花というものが植物の生殖器なんだから、そっち方面の連想が働くのはやむをえないが、グールモンの連想はなんというか猥褻ぎりぎりまでいっている。それも下半身を直撃する猥褻さではなくて、あくまでも脳髄的なものにとどまっているのだから始末がわるい。この原初的欲望に還元されない肉感性が「むかしの花」の全篇を薄いヴェールのように包み込んでいるのだ。

この官能性はフランス語に特有のものだろうか、そうだとしたらじつにけしからん言語だというほかない。

そこへいくと、馮さんの詩は漢字ばかり並んでいるので、あまりそういう浮ついた情緒は感じられない。遊び女を歌っても、蓮っ葉娘を歌っても、あくまでも凛として矩を越えずといった風情がある。そういうところを日夏の和訳がうまく掬い取っているか、といえばそれはまた別の問題だ。