詩はアンソロジーで読むべきか


丸谷才一ってまだ生きているのかしらん、と気になって調べてみると、ウィキペディアを見るかぎりまだご存命のようだ。そういえば何年か前に新訳「ロリータ」について新聞に書いていたくらいだから、生きていてもふしぎはない。おそらくは文学者らしい文学者の最後の世代。

丸谷氏のことが気になったのは、彼が「詩はアンソロジーで読め」とどこかに書いていたのを思い出したからだ。詩をアンソロジーで読む、そのことに異論があるわけではない。異論があるわけではないが、アンソロジーだけではたして読者は満足できるのかな、とも思う。アンソロジーというのは、いわばいろんな花がいっぱい咲いた庭園みたいなもので、個々の花は全体のうちに埋没している。その埋没した個々の花を個別に愛でるところに、アガペチックならぬエロチックな愛が生じるのではないか。そして詩に対する愛とは本質的にエロチックなものなのではないか、というのが私の意見。

丸谷氏のように詩を(広く文学を)社会的(社交的)なものとして捉えるのもひとつの見解だが、個別的、秘教的なものとして捉えるのもまたひとつの見解だと思う。そしてそのように捉えなければその本質が見えてこない詩人の極北にマラルメがいる。

ではマラルメのような詩人とエロチックな関係をむすぶためにはどうすればいいのか。私の考えでは、その詩を暗記するよりほかないように思う。注釈のたぐいはいっさい捨象して、テキストそのものをいわば骨肉化すること。それが体内であくまでも異物としてとどまるとしても、いったんは自分のうちに取り込むこと。それ以外に彼の詩を読む方法はないように思うのだ。

それ以外にも、たとえばマラルメの詩を訳すという方法もあるんじゃないか、という意見もあるだろう。しかし、彼の場合、訳すという行為は、その真の姿を取り逃がすということにひとしい。いくらがんばって日本語にしてみても、そこにはすでにマラルメの姿はなく、彼はするりと身をかわしてはるか彼方へ逃げ去っている。この逃げ去るマラルメを捉えるには、こっちもマラルメといっしょにつねに走っていなければならない。

というわけで、ぼつぼつとだが彼の詩の暗記につとめている。さいわいにして彼の詩は多くない。一年くらいがんばればその全部を暗記することも可能だろう。一年後になにかまとまったマラルメ論が書ければいいと思う。