明日から仕事


気がつけば連休も終わり。とくになにをするでもなく、だらだらと過ごしてしまった。時間を浪費することはお金を浪費することと同じだから、その意味ではけっこうぜいたくに過ごしたともいえるが、残念ながらそういう実感はまったくわかない。

時間の浪費といえば、きのう友人三人とひさしぶりにファミレスで長々と話をしたが、話のかみ合わなさにだんだんと居るのが苦痛になってきた。こういうときに思い出すのがライプニッツモナドの説だ。ライプニッツはすべてのモナドが同一の世界を表出していることに意義を見出しているようだが、自分などにはむしろ各モナド間の不連続性のほうがいっそう身にしみて感じられる。

しかし、そんなとりとめのない長話でも、そこに酒が入ると様相は一変する。酒を飲みながらだと、いくら長話をしても時間をむだにしたという気がいっこうにしない。アルコールによる自我の拡大がなにか関係しているのだろうか。あるいは理性の減衰にその契機を求めるべきだろうか。いずれにせよ、酒が人間関係における潤滑油であることには異論の余地はない。

しかし、これを逆に考えると、酒を飲みながらしか話せないことというのは、おおむねつまらないことだといえないだろうか。つまらないというより、非理性的といったほうがいいかもしれない。酩酊と理性とはたぶん相容れない。この相容れないものを強引にひとつに結びつけようとした思想家にジョルジュ・バタイユがいる。彼にとって、酩酊していない思想などは一文の価値もない。たんに思想に酔う、というのではなくて、思想そのものに酒精が含まれていないと彼にはがまんがならないのだ。

そういう資質のせいかどうか、バタイユのおもしろさは、バタイユに酔っているときにしか味わえない。酔いがさめると、なんであんなものに熱中したのかさっぱりわからない、ということになる。それだけ底が浅いのだろう。多くのひとにとってバタイユは、「むかしはよかったけど、いまはね……」というような感慨の対象になっているのではないか。

とはいうものの、自分のことをいえば、数年前の精神的危機を彼の「内的体験」を読むことでかろうじて切り抜けたわけだから、あまり彼のことをわるくいいたくはない。たとえそれが一時的なカンフル剤のようなものだったとしても。