「老子」


この前読んだ「易の世界」に「老子荘子とくらべて現実政治的」というような記述が出ていた。そういえば前にryotoさんの日記を読んだときも同じようなことが書いてあった。これは私の印象とだいぶ違っていて、老子といえば政治とは無縁の玄妙な神秘思想みたいな気がしていたのだが、もしかして私の一方的な思い違いだったのだろうか? それを確認したいということもあって、この本をもう一度読みなおしてみることにした(小川環樹訳注、中公文庫)。

たしかに、気をつけてみると、いたるところに政治的な記述がある。聖人や君子の心得のようなものが書いてある。しかし、老子の「道」の教えは政治に応用できるものだろうか。たとえできるとしても、それはどこかの離れ小島みたいなところで小規模にやるしかないのではないか。古代のシナのような、中原に鹿を追っかける連中がうようよしているところでは、老子流の政治のごときはたちどころに息の根を止められてしまうのではないか。

そう思いながら読んでいたら、最後の最後になってこう書いてある。「小国寡民には什伯の器ありてしかも用いざらしめ……」(第八十章)。なるほど、これを読むと、老子も自分の政治論が人口の少ない小さな国でしか役立たないことはわかっていたようだ。老子の教えは徹頭徹尾性善説であって、へんに智恵をつけたりしないかぎり、人間は争いを好まないものとされているが、じっさいはそううまくはいかない。どんな小さい子供にも暴力の萌芽はみとめられる。無知のままでほうっておけば善良になるのではなく、智恵がついてようやく善良なふりができるようになるのだ。

というわけで、この本は政治論として読んだら物足りないが、それでは「道」の形而上学として読んだらどうなのか。まず冒頭にこんな文か出てくる。「道のいうべきは常の道にあらず、名の名づくべきは常の名にあらず」。つまり、「道」がなにか説明できるようなものなら、そんなものはほんとうの「道」ではない。なにか名前をつけることができるようなものなら、そんなものはほんとうの名前ではない、と。語りようもなく、名づけようもないものについて、いったいどんな言説が可能だろうか。言語化できないものを言語によって伝えることなどできるのだろうか。

ここで老子の使う手法は、一種の否定神学ともいうべきものだ。万物の起源を否定を通じて順にさかのぼっていくと、最後にどうしても否定できない究極の否定すなわち「無」が残る。この「無」は、しかしニコラウス・クザーヌス流の逆転により、すべてを包蔵する「絶対」に転化する。極小者はその無限のゆえにそのまま極大者となる。この「無」がすなわち「道」であり、それは最初の有すなわち「徳」を生む。道=0であり、徳=1といってもいい。あとはこの0と1から二進法によって万物が生じる。「道」と「徳」、すなわち「道徳」こそが万物の始源なのである。……

と、そんなに簡単に要約できるものでもないと思うが、骨子はだいたいこんなところだろう。で、その無すなわち道を知るには、やはりというか神秘的な体験が必要とされるようだ。このあたりはプロチノスの「善なるもの一なるもの」と親和性が高い。ついでに書いておくと、老子のいわゆる「無為を為す」とは、ライプニッツがしりぞけている「無為の理」(logos aergos, ignava ratio)を極端にまでおしすすめたもので、神の(あるいは「道」の)予定調和をみとめるならば、本来はここまで徹底しないといけないだろう。

しかし、やはり過ぎたるは及ばざるがごとしで、老子は逆説を弄するあまり、どうも本来の意図とはべつのところに出てしまっているようにみえることがある。たとえば「有用よりは無用のほうが良い」という場合の「良い」とはなにかと考えると、これはつまり「有用である」ということになるのではないか。「有用よりも無用のほうが有用だ」では、無用と有用のどっちがいいのかわからなくなってくる。老獪という言葉があるが、その「老」とは老子の老ではないか、と思ってしまう。