スピノザ「エチカ」下巻


この本が一般の哲学書と決定的に違うのは、「感情」にかなり重点をおいて書かれているところだろう。それは人間の幸不幸を考えた場合、理知的な面よりも感情に支配される面のほうが多いことを考えれば当然のことかもしれない。経験的にいっても、なにが幸でなにが不幸かは、そのときどきの感情の揺れ動きに左右されるのではないか。幸にしろ不幸にしろ、それ自体がすでに感情ではないだろうか。

しかしスピノザは感情論に多くのページを割きながら、真の幸福はふつうにいわれる感情に由来するものではないという。彼によれば、感情とは精神(理性)よりもむしろ身体的なものに関わるものだ。それは外界の事物から身体が受ける表象にほかならない。ことに情念(passion)はその名のとおり受動的(passive)なものだ。情念の底をさぐっても、その核となるものは精神のなかには見出せない。外部に原因をもつ感情はすべて受動感情である。

では、感情には能動的なものはないのか? スピノザはいう、自己に由来する感情こそが能動的なものだ、そしてこれのみが真の幸福のみなもとである、と。

自己に由来する感情とは、平たくいえば自己が自己を愛する感情のことだ。それは究極的には「神に対する知的愛」ということになる。神といってももちろん人格神でもなければ自然そのものでもない。人間がその「様態的変状(modificatio)」であるところの、万物の共通分母たる実体のことだ。

この実体(substantia、下に立つもの)としての神を実感できるかどうかが、スピノザを読むうえでの鍵になってくる。

私はといえば、こういう神概念は子供のころからずっともっているもので、自分だけの特殊事情かと思っていたが、スピノザもまたこういう考えの持主であることを知って意外に思うとともに、彼の思想が東洋的といわれる理由の一半はこういうところにもあるのかと思った。

私の知るかぎり、「エチカ」にもっともよく似ている本はパスカルの「パンセ」だ。「パンセ」はばらばらの断片だが、あれを体系的に組み立てればパスカル流の倫理学になったのではないか、と思われる。そういえば学生のころ、パスカルの「パンセ」をしじゅう持ち歩いていて、ことあるごとにこの本を引き合いに出す変な先輩がいた。スピノザの「エチカ」についても同じような熱心なファンがいるのではないか。

最後に、本書にいわゆる「幾何学的秩序」はけっこういいかげんなもので、証明の部分などは随所に穴がある。こういう「突っ込みどころ」の多さも、この本がいまだにさまざまな論議の対象にされていることと無関係ではないと思う。