ロック「人間悟性論」下巻


下巻には「言葉に就いて」と「知識と蓋然性に就いて」が収められている。しかし、この二つは上巻に収められた「原理も観念も生得的ではない」および「観念に就いて」ほどには重要でない。おそらくロックの所論は、上巻のふたつのエッセイ(試論)につきているのではないか。上巻を原理論とするなら、下巻はその拾遺篇みたいなものだ。

「言葉に就いて」を読んでいると、ロックにとっては観念と言葉とはほとんど同義ではないか、と思われてくる。つまり、「観念に就いて」で述べられたことがここでもう一度蒸し返されているような気がするのだ。ロックの考えを簡単にいえば、物の模像が観念であり、その観念の符号が言葉だということになる。ところがこの符号、あまりにもよく観念に合致するようにできているために、それ自体が観念の代替物になってしまっているかの観がある。

さらにロックの説に従えば、観念と物、いいかえれば言葉と物とは対立関係にあるのではなく、協調関係にある。あれかこれか、ではなくて、あれもこれも、がロックの標語だ。一見不徹底なのだが、この中庸の精神(?)こそがイギリス哲学に固有の性格ではないか、という気がする。

イギリス哲学といったが、そういうものがあるかどうかは知らない。しかし、ロックのこの本はきわめてイギリス的な性格をもっていると思う。それはひとことでいえばユートピア思想の思弁的領域における展開、ということになるだろうか。マルクスは「われわれ(哲学の徒)は世界を解釈してきただけだ。世界を改革することが重要なのに」といったが、世界解釈と世界改革とは見かけほど異なっていない。どちらも世界の再創造ということが根底にあると思われるからだ。

この本を読んで気になったのは、要するにそういったことども、つまり、言葉と物との関係、およびユートピア思想と観念論との関係などだ。自分でも意外な副産物としては、ここへきてようやくフーコー(「言葉と物」)との接点が得られたことがある。もっとも、フーコーへすすむ前にライプニッツだけは読んでおかなければならないが。

さて、最後に余談をひとつ。この本では「知性」ではなくて「悟性」という言葉が使われている。Understanding(ドイツ語でVerstand、フランス語でentendement)の訳語としてどちらを選ぶかはきまっていないようだが、カントの訳書などではもっぱら「悟性」が使われているようだし、「知性」はintellectの訳語としてはともかく、understandingの訳語としてはちょっと的外れな気もする。

ロックによれば、「悟性」とは要するに理解力のことで、「理性」とは思考力のことだ。一般に「知性」という言葉はこの両者を含むのではないか。どうでもいいようなことだが、とりあえず書いておく。