ジョン・ロック「人間悟性論」上巻


去年、ライプニッツの「人間知性新論」を読むための準備として買ったもの(加藤卯一郎訳、岩波文庫)。上巻のおもな内容は経験論に基づく認識論で、こういう考え方は日本人にはわりあいすんなりと受け入れられるのではないかと思う。なによりも、ロックはなるべく「神」を出さずにすまそうとしている。いや、それどころか、「神」を人間が帰納的に経験から導きだした「概念」とみなしているような節すらある。それに、スコラ哲学以来の実体形相(substantial forms)などははなから認めていないようだ。これではライプニッツと対立するのは当然だろう。

ロックの論は、どこまでも経験から出発する。だからいちいち身につまされることが多くて、それゆえ非常に説得的なのだが、逆にいえば当り前のことを当り前に説明しているだけではないのか、という不満も出てくる。どうもあまりにまっとうすぎるのだ。哲学はどこか羽目をはずしたところがないとおもしろくない。日常的な経験とは別な次元に導いてくれるようなものでなければ、読者はなかなか承知しないだろう。ことに、日本のような、哲学を遊びかシャレでやっているような国においてはなおさらだ。

さて、本書を読みながら思ったのは、このイギリス流の認識論、つまるところ心理学と言語学とにきわまるのではないか、ということ。とくに言語の占める割合は大きい。ロックの説く経験とは要するに言語のことではないのか、と思っていたら、最後のページでこんな記述にぶつかった。

「然しこの問題(認識論のこと)に更に近づいて見ると、私は、観念と「言葉」の間には非常に密接な連絡があり、我々の抽象的観念と一般的な言葉の間には非常に常住的の相互関係があるので、全く命題に存するところの我々の知識に就いて明晰、判明に語ることは、先ず「言語」の性質、使用、及び意義を考察することなしには不可能である、それ故にこれが次の巻の仕事でなければならぬ」

というわけで、ことは必然的に言語の問題に移行するようだ。