渡辺一夫著作集について


渡辺一夫著作集の第九巻の末尾には全巻の内容の目次がある。これを見ていると、けっこうシステマティックな著作集なんだということがわかる。

ラブレー雑考が二巻
ルネサンス雑考が三巻
フランス文学雑考が三巻
乱世・泰平の日記が一巻
偶感集が三巻

でもって、各巻の目次を眺めると、これはもうフランス文学のおいしいところを総なめにしているといっても過言ではない。渡辺一夫著作集をぜんぶ読んだら、ちょっとした大学の仏文科を出たくらいの知識は身につくのではないかと思ってしまう。だれかが、鴎外全集を読破することは文科大学へ行くのと同じかそれ以上の価値がある、といった。渡辺一夫の本についても同じようなことがいえるのではないか。文学部に籍を置いたことはないけれども、どうもそんな気がする。

とはいっても、それはいまから30年以上も前の話だ。文学研究においてもフーコー以前と以後とははっきりわかれるだろう。「以後」の目で渡辺一夫の本を読んだら、それこそ八方破れの隙だらけにちがいない。こんなものは文学研究の名に値しないといわれてもしかたがない。

まあそれはそれとして、この著作集を眺めていると、文系の学問(旧派の)の要諦は、集めること、分類すること、記述することの三つにつきるのではないかという気がする。逆にいえば、これだけのことをやっていれば少なくとも学者として生きていくことができるのだから、文系の学問とはある意味で気楽なものだ。それは特別の才能を必要としない。いわんや天才などは必要どころかむしろじゃまなだけだろう。というのも、天才とは集めたものを惜しげもなく捨て去り、分類されたものをもう一度ごちゃまぜにする人間のことだからだ。

フーコーというのは、もしかしたらそういう天才型の研究者だったのかもしれない。まあ、たとえそうだったとしても、天才でもない人間がフーコーの真似をするのは危険だ。フーコーを読んで理解したからといって、それでただちにフーコーになれるわけではないのだから。

と、えらそうなことをいいながら、じつはフーコーの本は一冊も読んだことがない。ぼちぼち彼の呪縛も解けかけてきているようだから、近いうちになにか読んでおかないと手遅れになってしまうおそれがある。いや、いまでもじゅうぶんに手遅れかもしれない。