詩人ではない人間が詩を書く方法


ヨーロッパの伝統的な芸術の分類法に、建築、音楽、絵画、彫刻、文学、演劇の六つにわけるというのがある。七番目が二十世紀になって発達した映画で、八番目以下もあることはあるが、それらは多かれ少なかれハイブリッド種に属する。

ところで、こうやって芸術を分類してみると、文学だけがほかのものと比べて異質なことに気づく。というのも、文学にはそれに対応する専門の教育機関が存在していない。もちろん大学に文学部というのがあるが、それにしても小説や詩の書き方を教えているわけではあるまい。

詩(歌)や小説の書き方を先生について習う──むかしはそういうこともおもに私塾や個人教授によって行われていたようだが、しかしそういう環境から偉大な詩人や小説家が出たという話はあまり聞かない。

これは文学というものが芸術として一人前ではない証拠だろうか。

ドイツ語では文学者をひとまとめにしてDichter(詩人)と呼ぶ。これでいくと、文学のうちで詩だけが芸術で、あとのものは芸術の名に値しないと見られても仕方がない。そしてその詩ですら、近代以降は先生について習うものではなくなっている。

このことは文学が言葉をその表現の媒体にしていることと無関係ではないと思う。ほかの芸術が人為的にその技術を習得しなければならないのと異なって、文学でははじめからその表現のための技術が万人に備わっているのだ。これは一方で文学を近づきやすいものにするとともに、他方では逆にその敷居を高いものにしている。

言葉を知っていれば、小説や詩は──原則的には──だれにだって書ける。しかし現実にはいうまでもなくそんなことはありえない。言語能力が万人にひとしく分け与えられているからこそ、それを文学的に使うのはごく一部の人の(それもおそらくは生まれながらの)特権的な能力──つまり才能──になっているのだ。

そういうものであれば、いくら凡人が後天的に学習したって、文学作品を書くことができないのは当然のことだ。後天的に学習できないのだから、それを教える先生がいないのもふしぎではない。ひとは文学者になるのではなく、文学者に生まれるのだ、といえばいいか。

では文学者に生まれなかった人間はどうすればいいか。

盗めばいいのだ。あらゆるところから、少しづつ。

最近、詩のまねごとをやっていて、つくづく自分には才能がないことを知ったが、そんな自分にできる唯一のことは、いろんな詩を読んでみて、それを少しづつ自分の表現に近づけていくことだ。詩人でない人間が詩を書くにはそれによるしかない。

しかし、考えてみれば、近代の大多数の詩人はみなこの方式で詩を書いているのではないだろうか。過去の詩の雑然とした集積、いわば詩の残骸の置き場所こそ、詩人の学校にほかならない。それらのガラクタを組み合わせて新しいものを作り出すこと。いわゆる「詩法」とは、この組み合わせ術以外にありえない。

もっとも、そうやって生み出された作品は、しょせんはにせものの詩であって、真正の(つまり生まれながらの)詩人の作品と比べると、たちまちメッキがはがれてしまうのはやむをえない。

えんえんと「〜ない」ばかりが続く文を書いて、自分でもいやになってきた。じつは詩を書くにあたって障害になる重大なことがもうひとつあるのだが、これ以上否定的なことを書きつづける気がしない。そのことはまた改めて。