ニーチェ「この人を見よ」


手塚富雄訳の岩波文庫。これを読みながら思ったのは、

ニーチェさん、あんたヤバいよ、病んでるよ……」

ということ。とにかく、このヤバさはじっさいに読まないとわからない。古語の「かたはらいたし」とはこういう状況をさしていうのだろう。読まなきゃよかった、と思う反面、読んでよかった、とも思う。前からうすうすニーチェとはこういう人じゃないか、と思っていたまさにそのままが書かれている。まちがってもこういう人にはなりたくない。

しかし、こうもひりひりと身につまされるのは、たぶん自分のなかにもニーチェ的なものがあるからだろう。シュティルナーの問いが「個人は個人としてどう生きるか」だったとしたら、ニーチェの問いは「弱者は弱者のままでどう生きるか」でなければならない。一切価値の転換とは、要するに弱者が強者になることだろう。しかも、それはあくまでもルサンチマン抜きで行われなければならない。

そんなことはいうまでもなく不可能だ。もしそれを可能だというのなら、個々人の脳内でのみ可能であろう。そして、いちばん痛々しいのは、ニーチェ自身がそのことをはっきりとわかりながら書いているところだ。彼は観念論(理想主義)を敵としてしりぞける。しかし、ニーチェの書いていることがまさしく観念論なのではないか。

とにかく、彼のいうことを真剣に聞いていたら、こっちが病気になってしまう。病者の光学を矯めるのに病者の光学をもってするとは、一種のホメオパシーだろうか、それとも「盲人が盲人を導く」のたぐいだろうか。

というわけで、かなり病的な本なのだが、もちろん文学作品として読んだら一級品だ。どのページにも、思わず引用したくなるような章句がぎっしり詰まっている。手塚富雄の翻訳がまたすばらしい。彼の翻訳はシャミッソーの「影を売った男」に驚嘆して以来、目についたものをぼつぼつと読んでいるが、正直いってがっかりするようなのも少なくなかった。が、このニーチェの訳は文句のつけようがない。

手塚富雄は翻訳者としてだけではなくて、ドイツ語学、文学者としてもすぐれた業績を残しているようだ。その点ではたぶんフランス文学の渡辺一夫と同等もしくはそれ以上だろう。手塚富雄にも全集か著作集があったはずだ。機会があれば見てみたい。