マリオ・プラーツ「ムネモシュネ」


かつて美術出版社から出た訳本を不可として高山宏が新たに訳しなおしたもの(ありな書房、1999年)。しかしこれをもって邦訳決定版とするのならもう少し校正をしっかりしてほしかったと思う。ありがちな変換ミスが散見するのは残念だ。「名ずける」とかの表記もいただけない。

それはそれとして、この本はプラーツの著作のうちではわりと軽めのものではないかと思う。そのライトモチーフになっているのは、ホラティウスの「詩は絵の如くに(ut pictura poesis)」と、ケオスのシモニデスの言とされる「絵はもの言わぬ詩、詩は語る絵(pittura parlante)」である。ここから画文一如(Ekphrasis)なる概念が出てくる。それをもとに「文学と視覚芸術との間の平行現象」をルネサンスから現代まで(!)語りつくしたのが本書である。

私がおもしろいと思ったのは、たとえば「エドガー・ドガの1861年の作品《セミラミスの都市計画》は「不信の停止(suspension of disbelief)」をかちとるのにもっと成功している」という記述。この「不信の停止」なる言葉はコールリッジの「ビオグラフィア・リテラリア」に出ているもので、ありえない、ばかばかしいという感覚をとりあえずは括弧に入れとけ、という意味である。おもに超現実を描いた詩について使われる用語だが、それをドガの絵に適用するところに著者の非凡な着想をかいまみる思いがする。

あと、贋作を論じた部分もおもしろかった。絵という、ほぼ万人の目にひとしく映るであろうようなものでも、その「見方」というか「見え方」は一人一人ちがうし、時代によっても変化する。つまりある時代に自明なものが他の時代には自明ならず、逆もまた真なり。そこから引き出される帰結として、いかなる完璧な贋作者といえども、彼の生きた時代の書跡(ductus)を免れないこと、すなわちいかなる完璧な贋作もその時代の刻印を帯びずにはすまされないこと。

これを読んで、いままで何べん読んでも分らなかったボルヘスの「ピエール・メナール」の意味がようやく腑に落ちた。


(追記)
あまり関係ないけど、いまウィキペディア高山宏の項を読んでいたら、フランチェスコ・コロンナの「ポリフィルス狂恋夢」が氏の訳で今年(もうあと少ししかないが)出るらしい。かつてツイッターで「イタリア文学者は早いことしないと英文学者か仏文学者にもっていかれちゃうよ」とつぶやいたが、それが現実になろうとしている。