バッハ「オルゲルビュヒライン」


中学のころから気がかりだったのをいまごろ聴く(ヴァルヒャ「オルガン全集」、モノラル録音)。全体的にわるくはないが、一曲目がよすぎてあとの曲がかすんでしまう。あとの曲といっても44曲もあるので、ほとんど全部がかすんでいるようなものだが……

一曲目の題名は「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」である。しかしこれはどう聴いてもそんな勇ましい感じの曲ではない。これを聴いているとビザンチンの薄明という言葉を思い出す。それと同時にモローの描くサロメの絵が頭に浮んでくる。



もちろんバッハがビザンチンの薄明やモローの絵を知っていたはずはないから、この私の印象は分析的なものではない。こうして鑑賞にあたってたえず総合判断が入り込んでくるのが音楽というものの宿命であり、その豊穣のしるしであり、かつは批評の堕落を促すものである。

批評の堕落、つまり音楽についてはどんなに無茶なことをいっても許される、ということ。

そういうところから、プラーツは音楽をムネモシュネ(記憶の女神)の領土からきっぱりと追放する。しかし翻って思うに、音楽ほど記憶と緊密に結びつくものがあるだろうか。音楽にはどこか匂いと似たところがある。

視覚は触覚と結びつき、聴覚は嗅覚と結びつく、そんな仮説が成り立つかもしれない。