アメリカ嫌い


きのうの日記を書きながらふと思ったのだが、私は題名に「アメリカ」の文字があったらまず敬遠することにしている。いや、敬遠というのはよくない、見ずに素通りするといったほうがいい。理由はといえば、アメリカという国が昔から、ほんとに子供のころから大嫌いだから。こんなことはいいたくないけど、じつはアメリカ人のしゃべる英語も大嫌いなんだ。

なんでこうなってしまったのか、自分でもよくわからないが、とにかく「アメリカン・グラフィティ」にしろ「狼男アメリカン」にしろ題名だけでパス。唯一の例外はカフカの「アメリカ」くらいのものか。

その「アメリカ」だが、最近は「失踪者」という名前に変っていて、これにはちょっとまごついた。たしかに主人公は失踪者かもしれないが、まだ子供ですよ、彼は。子供の失踪者というのはちょっとぴんとこない。やっぱりこれは「アメリカ」という題でよかったんじゃないかな。「アメリカ」という題のほうがずっといいと思うのは、まあたんなる刷り込みでしかないんだろうけど……

オクラホマの野外劇場、あのラストが昔から好きだった。「アメリカ」もやはり未完の作品らしいが、しかし私のなかではあまり未完という感じはしない、むしろ大団円という古い言葉がぴったりするような終り方だったような気がする。おまけにノスタルジックな余韻まで響かせているんだからたいしたものだ。

しかし考えてみれば、カフカの小説は読んだ後でそのイメージがどんどん自己流に変換されて、はてはきわめて個人的なカフカ像ができあがってしまうので、じっさいのカフカ作品は私の脳内のカフカ作品よりもつまらない可能性がある。それならそれでかまわない、他人の脳にしのびこんでそこに居場所を確保し、なおかつじっさいそうであるよりも美しい夢としてそこに居座ってしまうなんて、まさに選ばれた作家にのみできる芸当だと思うから。

B.E.エリス「アメリカン・サイコ」


読んだ感想をひとことでいえば「最低!」なのだが、それだけではあんまりなので、いちおう所感のようなものを書いておく。

訳者のあとがきによれば、この長篇が評判になったのは、作中における「残虐きわまりない殺人場面」のためらしい。しかし私はそれらの描写を読みながら、いっこうに残虐とも何とも思わなかった。それは私の感覚が麻痺しているからではない、この小説そのものが現実感を失った、いわば「麻痺」の状態にあるからだ。

本書に向けられた悪評としては、残虐、無意味、悪文などがあるらしい。私はここで「無意味」に注目したい。この「無意味」がえんえん400ページにわたって持続することで、作品そのものが麻痺状態に陥っているのである。そしてその麻痺状態、すなわち一切の現実感を欠いた、風景もなにもないのべたらで一元的な世界こそがサイコパスの精神そのものである、と作者はいいたいらしいのである。つまり、凶悪犯の心のなかを覗いてみても、そこには絶対的な意味の欠如があるばかりで、およそ語るに足る(すなわち合理的な)ものはなにも見出せず、いわゆる犯罪心理学者たちがもっともらしく語る犯罪の動機のようなものはことごとく嘘っぱちである、といったようなことである。

最後に悪文云々についていえば、「無意味」を表現するために作者のもちいた文体がはたして「悪文」と呼べるのかどうか、私にはわからないが、これの翻訳は大変だったろうと思わざるをえない。言葉の「意味」を忠実に写し取りながら、しかもそれがどこまでいっても「無意味」でしかないというこの気の遠くなるような作業(文字どおり意味のない作業)を最後までやりとげた訳者(小川高義)の努力をたたえたい。

サイコパス小説二篇


かつて私を死ぬほど苦しめた人間が、じつは典型的なサイコパスだったことをいまごろ知る。それと同時にサイコパスに興味が出てきたので、その手の人間を主人公にした小説があったら読みたいと思って調べてみたら、「教えてgoo」に回答済みの質問がいくつも出ていた。それらを見ると、たいていの人のあげるサイコパス小説の決定版はどうやら「羊たちの沈黙」にとどめをさすらしい。これは映画は見たことがあるが、小説のほうは未読である。そこでさっそくアマゾンのマケプレ(¥1なり)に注文を出した。

で、到着したその本を読み出したのだが、これは……

……うーむ、これを最後まで読み通した人を私は尊敬する。私は10ページほどで我慢ができなくなった。これまでけっこういろんな翻訳書を読んできたが、これほどのものにはお目にかかったことがない。どうがんばってみても読み通せそうもないので、ゴミ箱にポイすることにした。いままで本をゴミ箱に捨てたことは一度もないが、こんなもの古本屋でも引き取ってくれるはずもないので、不本意ながらこの世から一部抹殺することにした次第である。

さて、教えてgoo(ではなかったかもしれないが)によると、ガルシンの「赤い花」もサイコパス小説になるらしい。これは昔岩波文庫で読んだが、筋を完全に忘れていたので、再読しようと思って本を探したが見つからない。もしかしたらネットにテクストがあるかもしれない、と思って探したらあっさりと見つかった。仏ウィキソースに無名氏の訳したのが載っている。で、さっそくこれを読んでみた。

これは厳密には、いや厳密にではなくともサイコパス小説とはいえない。その点では肩透しを食わされた気分だが、それにしてもなんというすばらしい短篇だろう。読んでいて胸が痛くなってくる。ロシア版「残酷物語」の一篇に数えらるべき名作。

ところで考えてみれば、サイコパスという言葉自体は比較的新しいもののようだが、そのたぐいの人間は大昔からいたはずで、彼らがどんなふうに呼ばれていたのだろうか、と考えてみると、pervert とか degenerate とかの言葉で表現されるのがそれではなかったかと思う。根拠としては、クラフト=エビングの「プシコパチア・セクスアリス」をあげておきたい。

西脇順三郎「Ambarvalia」


またしても詩の話で恐縮だが、「ウェブでしか読めない西脇順三郎」というサイト?があって、そこに由良君美の書いた回想録が出ている。あまりにもベッタベタの讃辞なので読んでいて気恥ずかしくなってくるが、そういえばこの人は「みみずく英学塾」でも同じような西脇頌を書いていた。しかしこうまで褒め讃えられているのを見ると、私としてはがぜん反抗心が頭をもたげてくるのを如何ともしがたい。西脇ってほんとにそんなにすごいのか。学匠詩人なんてカッコつけてるだけではないのか。

とりあえず現物を読んでみたい、と思ったが、急に詩集を買うわけにもいかないので、手元のアンソロジー(日本現代詩大系)を見ると、抜粋版ではあるが「あむばるわりあ」が載っているのでそれを読んでみた。そんなにすごいのか、という期待とともに、どうせくだらん詩人だろう、という失望の予感をも併せもちつつ。

序盤はあまりぱっとしない印象。なんか下手くそな詩だなあ、これじゃ素人まるだしだよ、と思いつつ、「哀歌」にいたってラテン語の詩が出てくるのにちょっとびっくりする。初めは向うのラテン詩人の引用かと思ってネットで調べてみると、どうも西脇が自分で作った詩のようだ。うーむ、こりゃすごい、と思いつつあるページ(pdf)を見ると、このラテン語詩について「読むのが苦痛なほどひどい」と評があって、さらに文法も文体もめちゃくちゃであると酷評されている。

この評を見てから、なんだか「あむばるわりあ」がぐっと身近に感じられるようになった。やはり学匠詩人という金看板(?)にいささか気圧されていたらしい。そういう先入見を取り去ってこの詩集を読むと、意味不明の詩句や舌足らずな表現もさほど気にならなくなる。それどころか、そういうところに若き日の西脇順三郎の純朴かつ真摯な面影が伺えるような気がする。いずれにせよ、古今東西のトポスに霊感を求めながら、それらすべてを糾合して「いま、ここ」としかいいようのない詩的乾坤をつくりだし、それを「あんばるわりあ」という牧歌にまとめあげたのは見事というほかない。

もちろん「いま、ここ」といっても、それは西脇にとっての「いま、ここ」であって、私にとっては「かつての、そこ」なのだが、他人の書いた「かつての、そこ」を私自身の「いま、ここ」に重ね合せる以外に詩を読む便法があるとは思えないのである。

花と女と


詩の話ばかりで恐縮だが、詩人の日夏耿之介に「唐山感情集」という漢詩の訳詩集があって、その巻頭を飾るのが清の馮雲鵬の「二十四女花品」というもの。二十四種の花をとりあげて、それを女に見立てて歌った連作である。これには訳者による小引がついていて、そこに「西でフランスの解人グルモン氏が、むかしの花きのふの花のリタニイを謳へば、云々」とある。「むかしの花」というのは、上田敏が訳して牧羊神に収めたレミ・ド・グールモン散文詩のことで、青空文庫にも入っている。

これの原文が仏ガリカにあったので、それを見ながら上田敏の訳詩を読み、かつ花の名前で検索をかけて出てきたページ(ウィキペディアが主だが)を眺める、ということをやっていた。非常に無益な時間の使い方である(いいかえれば贅沢ということだが)。

そうするうちに、いままで気づかなかったことに気づいた。

というのは、グールモンのこの詩がひどくエロチックなものだということ、そして上田敏はそのエロ成分をきれいに消し去って、お上品なものに仕上げていること。

もともと花というものが植物の生殖器なんだから、そっち方面の連想が働くのはやむをえないが、グールモンの連想はなんというか猥褻ぎりぎりまでいっている。それも下半身を直撃する猥褻さではなくて、あくまでも脳髄的なものにとどまっているのだから始末がわるい。この原初的欲望に還元されない肉感性が「むかしの花」の全篇を薄いヴェールのように包み込んでいるのだ。

この官能性はフランス語に特有のものだろうか、そうだとしたらじつにけしからん言語だというほかない。

そこへいくと、馮さんの詩は漢字ばかり並んでいるので、あまりそういう浮ついた情緒は感じられない。遊び女を歌っても、蓮っ葉娘を歌っても、あくまでも凛として矩を越えずといった風情がある。そういうところを日夏の和訳がうまく掬い取っているか、といえばそれはまた別の問題だ。

画像検索の鬼


静物画というとたいていの人はセザンヌを思い出すだろう。私もセザンヌの絵は好きだ。しかし、ああいった印象派ふうのもの以外に、むしろ象徴派ともいいたいようなふしぎな魅力をたたえた静物画が17世紀のオランダで続々と描かれていたことはあまり知られていないように思う(そんなことはとっくに知っている、という人もいるだろうが、いえいえ、あなたは例外者なのです)。そこでそういった絵に親しむべく、画像検索のリンクを作成してみた。

注意。一部、静物画でないものやフランス人のものも含まれている。


さて、ロザリーさんの本にはアナモルフォーシスも少しだけ触れてある。私がとくに気になったのは、アナモルフォーシスにポルノが隠されているのがある、という記述だが、それはあっさりと見つかった。エルハルト・シェーンという人の「年寄りは去れ」というもの。次のページの AUS DU ALTER TOR(2枚ある)をクリックするとその仕掛がわかる。

アナモルフォーシスといえば次のページもすごい。ロシア語が読めないのは残念だが、絵を見るだけでもじゅうぶんに楽しめる。


画像検索の鬼とタイトルをつけたが、まだまだこれくらいでは鬼には程遠い。そこからさらにリンクをたどり、出口なしのラビリンスに迷い込んで、かろうじて鬼を僭称できるかどうかというところ。

ロザリー・L・コリー「パラドクシア・エピデミカ」


高山宏の最新の訳本(白水社)。かなりの大冊で読むのに苦労したので、ちゃんとした感想を書いておくべきか、と思ったが、やめにした。というのも、この本でほんとに自分の血肉になったなあ、と思うのは序論とエピローグだけで、肝腎の本論のほうはよくわからなかったというのが正直なところだから。じっさいトラハーンだハーバートだといわれても、こっちにはさっぱり馴染みがないから、議論についていくだけで精一杯だ。とてもまとまった感想なんて書けやしない。

それでもまあ序論はいちおうレジュメをとってみた。これはじつに示唆するところの多い論文で、いままで漠然としかイメージできなかったパラドックスについて、非常に鮮明な視野を得られたのはよかったと思う。古典古代から──中世はまるまる飛ばして──後期ルネサンスまで、パラドックスのありようが手に取るようにわかる。それを一言でいってみろといわれたら困るが、ひとことでは説明できないのがパラドックスというものなのだ。

ところで、かつて仏文学の辰野隆日夏耿之介のことを「逆説の逆説のそのまた逆説の、酢でも蒟蒻でもいかない奴」と書いていたのが妙に記憶に残っているが、コリー女史の本でそんな詩人をあげるとなると、これはもうジョン・ダン以外にいない。ジョン・ダン抜きではパラドックス論が骨抜きになってしまうとでもいわんばかりだ。それくらいいたるところに顔を出しているのである。なるほどやはりジョン・ダンかあ、と思いながら読んでいたら、最後のほうでダンの自殺論を評して「パラドックスパラドックスパラドックス」と書いてあったので、思わず笑ってしまうとともに、おおいにわが意を得た次第である。

そうだ、ひとつどうでもいいことかもしれないがあえて書いておくと、高山氏はアイロニーを「複眼視」と訳している。これはすばらしいと思った。従来の「皮肉」や「反語」といった訳語ではカバーしきれないこの言葉の核をいいあてている。

訳ということでいえば、原文は「コリー的」と評される流麗なものらしいが、高山氏はそんなことにはおかまいなく、みごとなまでに自分の色に染めあげている。まるで高山氏がコリー女史を陵辱しているかのようで、読んでいて思わず手に汗をにぎってしまうが、しかし結果として堂々たる訳本(つまり彼らの子供)ができたのだからよしとしよう。

でもって、この本でいちばんおもしろいのはといえば、じつは訳者あとがきなのである。まったく、いまの日本でこうもおもしろい文を書く人は高山氏以外にいない。そのあとがきによると、氏はコリー女史の本はすべて訳すと宣言している。眼病と闘いながら、というからその決意には壮絶なものがある。ぜひとも百歳までの長寿を祈らずにはいられない。

最後に蛇足を。本書の題名のもとになったブラウンの本(プセウドドキシア・エピデミカ)はかつて「俗説弁惑」と訳された。蘭説弁惑のもじりだと思われる。その伝でいくなら、本書は「逆説弁惑」としてもよかったのである。