ニコラス・ローグ「赤い影」


こわい、こわい! こんな映画は夜にひとりで見るものじゃない! 原題は DON'T LOOK NOW という無愛想なものだが、これと比べたら「赤い影」という邦題のほうがずっと象徴的で、しかも核心に迫っている。赤い影とはつまり死の影で、「死」が赤いレインコートを着てヴェニスの市街をうろついているというわけだ。

この映画に特徴的なのは、鏡が効果的に使われていることだろう。頻出する水のイメージも鏡像としての役割を果たしていることが多い。この鏡の反映、そのまた反映に、映ってはいけないものがちらりと映り込む。そのおそろしさ。

これでもかと繰り出される鏡像の見えざる中心にはつねに死の影がひそんでいる。その影にとりつかれ、振り回され、最後にはあたかもみずから求めるかのようにその中心に飛び込んでいく主人公。彼は自分で仕掛けたパラドックスの罠にはまってしまったのだろうか。

とにかく全篇に異様な緊迫感がみなぎっていて、一瞬たりとも画面から目が離せない。当然疲れるわけだが、そのあげくに死ぬほど怖い思いをさせられるのだからじつに割に合わない映画だ。しかしこういっためまいのするような体験が、映画以外の表現では味わうことができないのもまた事実である。五つ星をあげたいくらいの怪作。

ケータイ小説としての「クラリッサ・ハーロウ」


近代小説の元祖とされるリチャードソンのクラリッサだが、こんなクソ長い小説を当時だれが読んでいたのだろうか、と考えると、それはやっぱり女性、金と暇のある中流階級以上の女性ではなかったかと思う。男はこんなものは読まないだろう、小説なんぞは女子供の慰みものとでも思っていたのではないか。つまるところ「クラリッサ」を初めとする小説類はこんにちでいうところのケータイ小説と似たような位置づけだったのであり……

いや、そんなことはどうでもいい、私の言いたいのはそんなことではなかった。じつはこのクソ長い小説の和訳がネットにあがっているのを知って、世の中にはすごい人がいるものだと驚くとともに、その肝腎のテクストがなんともいえない読みにくさなのが残念でならないのだ。

読みにくいといっても訳文がひどいとか、そんな話ではない、たんにフォーマットの問題である。ほかの人はどうか知らないが、私のパソコンでこのテクストを読もうとすると、文字の大きさとスクロールの点でいろいろと厄介なことが起るのである。いらいらしてとても読めやしない。まったくもって、訳者はほんとうに人に読んでもらいたいと思っているのだろうか。

どういうフォーマットで読むかは読むほうがきめればいい。そのためにはなるべくプレーンなテクストとして提供するのが訳者の務めではないか、少なくとも人に読んでもらうことを考えているならば。

pdfという形式で配布されるということは、つまりパソコンをもっていないと読めないということだろう。そうじゃなくて、たとえばケータイででも気軽に(とはいかないかもしれないが)「クラリッサ」を読めるようにしておいてほしい、というのが私の願いなのである。

痔のアンソロジー


ここ数日肛門の具合がわるくて、幸い坐薬を入れたらよくなったが、しかしお尻がこういう状態になったのはこれが初めてではない、もうだいぶ前からいわゆる痔ケツになってしまっているようなのだ、情けないことに……

まあ一病息災という言葉もあるくらいだから、それほど憂慮すべきことでもないとは思うが(本格的にわるくならないかぎりは)。

ところで、この痔というやつ、詩文の領域ではどういう扱いなのだろうか。古来痔を歌った詩や歌はあるのだろうか。管見の及ぶかぎりでは、正面切って痔をテーマにした作品にはお目にかかったことがない。たしかに、肺病や奇病ならともかく、「痔を詠ず」では風流にも何もなりようがない。

しかし、記憶をたどってみると、痔にふれた詩文が絶無というわけではなさそうだ。いくつか心当りのあるものもある。未来の「痔のアンソロジー」のために、思い出せるかぎり列挙してみよう。

  • まず沐浴する女を歌ったランボーソネットがある。風呂からあがって身体を拭いている女の尻にいぼ痔がみえるという詩。
  • 芥川竜之介の手紙に、「痔の痛みなんて分りませんね──岩山に赤い旗の立っているような痛みだ」というのがあった。彼はまたアナキスト俳人の句を紹介しながら、「あの霜が刺さっているか痔の病」というのをあげている。
  • 夏目漱石の「それから」だったと思うが、主人公が痔の手術を受ける描写があって、読む者をして慄然たらしめるとのこと。
  • ハイネの遺言詩に、「底意地わるいプロシャもどきのこの痔疾」なる句がある。
  • ラブレーに、グラングージエガルガメルがガルガンチュワを生むときひどい脱肛を起す記述あり。
  • フランスの罵り文句に、「おまえなんぞ尻の穴が脱けちまえ」というのがある由。
  • 南方熊楠の文章に、風呂に入っている爺さんの尻から直腸が飛び出している描写あり。
  • サドの「ソドム百二十日」の語り手の老婆の尻に大きな痔核がぶらさがっている記述あり。
  • シュオッブの「架空の伝記」の序文に、ルイ十四世の痔瘻への言及あり。


このくらいしか思い出せないが、ほかにもこんなのがあるよ! というのがあれば、ぜひご教示を賜りたいものだと思う、未来の「痔のアンソロジー」のために。

厨川白村「狂犬」


サイコパスにはこの世界がどんなふうに映っているのか、かりにサイコパスになったつもりでこの世を眺めたらどんなふうに見えてくるのか、と考えていてふと頭に浮んだフレーズがある。それは「かりに狂犬のこころもちになって世の人を見たならば、かくもあろうかと思って、書いて見たのが……」というもので、厨川白村の「狂犬」の巻頭にある一文である。

かりに狂犬のこころもちになって……おもしろそうな本だと思いませんか? しかしこの「狂犬」なる作品は、著者の全集には載っていない。編者附記として、「……『狂犬』は著者晩年の意志に副い全然省略した」とある。どうやら白村はこの作品を自分の著作目録から抹殺することを望んだらしい。生みの親によって撲殺された狂犬。よほど当り障りのあることが書いてあるのだろうか。それならますます読んでみたいが……

というわけで、図書館で借り出して読んでみた。

さて、内容について語る前にちょっと書いておくと、日本では完全に忘れ去られている、もしくは問題にもされていない厨川白村だが、中国語圏ではこんにちにいたるまで一世紀以上も大切にされ、愛されているということを最近知った。その間の事情は次の本に詳しい。

なか見!検索」でちょっと覗いてみると、「中国語圏の知識人の間では、厨川白村は鴎外や漱石以上に知名度が高い」とか、「北京大学の一教授曰く、白村はニーチェベルクソン、クローチェ、フロイトなどと肩を並べるほどの世界級の学者である、云々」とか刺戟的な言葉が並んでいる。彼の著作は魯迅をはじめとする優れた翻訳者によって系統的に中国語に訳されていて、各時代におけるその影響力にはかなりのものがあったらしく、それは文体という微妙な面にまで顕れているらしい。

では白村のどういうところが中国人にアピールしたかというと、それはおそらく「理想主義的反抗者」としての面が大きいように思う。理想主義的反抗者というと、日本人にはいかにも青臭い、世間知らずのお坊ちゃんみたいに見えるだろうし、じっさいそういう面が当時の(そして今日の)白村軽視につながっていると見ることもできる。「度し難いかな口舌の徒」というわけである。大学の先生でありながら「近代の恋愛観」なんていう本を書いたことに、学者としての堕落を見た人もいるだろう。

しかし彼のこういう学者らしからぬ「反抗的人間」の魂の叫びのようなものが、若いころの私には非常に魅力的なものにみえた。彼の本のどのページを繰っても、そこには生々しい生の息吹が感じられる。彼の文は生きて血が通っている、翻訳にいたるまでそうである。それが私には嬉しかった。

「狂犬」に話を戻すと、この本には著者のそういう「反抗的人間」の素地が露骨なまでに現れている。気に食わない人間に出くわすと、だれかれかまわず噛みつき、肉を裂き、骨を断たずんばやまざる気合である。傍若無人の酒宴を張る隣の住人に「ばか! やかましい」と大喝を浴びせ、躾のなっていない友人の子供の頭に鉄拳をふるう。じつに痛快である。が、子煩悩の親を憎むあまり、その子供の顔貌まであしざまに書くにいたっては、私といえども「引いて」しまう。なにもそこまで言うことはないじゃないか、これじゃまるでほんものの狂犬だよ……

著者はスターンの「トリストラム・シャンディ」か風来山人の「風流志道軒伝」のようなものを書いてみたいと思っていたようだが、できあがった「狂犬」を見るかぎり、これは漱石の「猫」を直接の雛形にしたものだと思わざるをえない。

出だしはこうである、

僕は狂犬だ。
狂犬だか何だか実は自分では知らないんだ。が、人間という奴が勝手次第に、遠慮会釈ものう、僕の頭上に「きちがい」と云う名称を附加したのである。


また癇癪もちの苦沙弥先生ともいうべき「主人」が現れて、彼の変人ぶりが縦横に語られるところや、随所にペダンチックな薀蓄が飛び出すところも「猫」と同工異曲である。

以下、いくつか抜書を並べておく。

……しかしまたよく考えて見ると、撲殺と云うことは人間としてはよほど上出来のやりかたで、不単純な、俗悪な人間の事だから、僕等を殺すのにも毒殺とか陥穽とか云うような陰険な手段を執りそうなものだが、そんな下等な事をしない丈けがいくらか心持がいい。

火を見ると直ぐに自殺すると云う蠍を除けては、凡ての生物中、自らの意志で生を絶つものは人間だけである。

燃えるような青春の血は涸れはてて死灰枯木のようになってから、なおああして果敢ない生を貪ぼっているのは、人間として実に大なる恥辱、大なる悲劇では無いか、賀も祝いもあったものじゃない。

……読んで金になるような書物は、書物と云われる資格のないもの、所謂 biblia a biblia だ位の事を知らないか。

……愚にもつかぬ旧交なぞは、温めるどころか、大に冷して了いたい位なもんだ。

論語をかつぎ出して、ひとかど道を説いた先生が、下婢をどうしたとか云う有名な話……

……円満院不得要領居士、またの名を「不得要領を得た奴」とかいうので……

一体、天下に理屈と云うもの位、強いようで弱いものは有りやしない。人間の社会を見ろ、力あるものの前には理屈なぞは糞の役にも立っていないじゃないか。……logic-chopper は引込んで居ろと云う事になる。

日本では坊主と云えば、梵妻の連れ子や、貧乏人の子沢山で溢れた過剰物が成るのだから、人物も卑しければ頭も低脳だ。和尚だの住職だのと、何も知らぬ善男善女を相手にいやに威張っては居やがるが、学問もなければ、肝腎の信仰さえあぶないものだ。

……酒はきちがい水だ、……

むやみに麦酒をあおって、あのハッハ、ホッホいう蛮音の多い、ノッホ・ニヒト・ゲゲエベン・ハッテなぞと云う言葉で管をまく奴の多い独逸だけを、日本の識者とやら申すお方は、新進の強国なぞと云って頻に感服してござる。

……とにかく職業という名の附くものにろくなものは無いようだ。

自分の仕事に身が入らずに、日曜と休暇を指折り数えて待っている間に、いつのまにか年を取って墓穴に這入るような愚劣な生涯を僕は送っては居ないよ。

……無礼なやつには喰い付くし、厚意をもつ者には厚意を以て酬ゆるのだ、tit for tat だ。


最後に結びの一節。

いまの人間社会には剃刀のように切れる人間なぞは腐るほど居るから、更に要はない。それよりは才も何もない力と熱とのみの棍棒のような、鉄槌のような、極めて単純なる愚物が必要なのだ。ところがそんな貴いものはこの澆季の世には薬にしたくも、居ないようだから、そこで僕のような狂犬が飛出して、先ず第一に如何に罵るべきものかと云う模範を示してやったのだ。軽浮な緑雨式や源内式の気障を離れて、先ず僕一流の「狂犬式」に、血烟の立つような、すさまじい獅子奮迅の罵倒法を学んだがよかろう。そして狂犬を撲殺するよりは、先ず才子とやらを撲殺し手腕家とやらを絞殺し、シッカリした人物とやらを駆除するのが目下第一の急務であろう。


……たしかに著者ならずとも著書目録から抹殺したくなるような作品ではある。

ジュウル・ルナアル「ねなしかづら」


ルナールの長篇小説だが、こんな内容だとは思わなかった、これではまるでポルノ小説ではないか。後半はずっともやもやのしっぱなし。十九世紀末版「危険な関係」ともいうべき小説(高木佑一郎訳、白水社、昭和12年)。

これはじつに不道徳な、けしからん本である。主人公のアンリはエゴイストを通り越してほとんどサイコパスといってもいいような人間で、彼は文学のことしか頭になく、女と色事をするときにも文学をやっているのだ。晩年にはどっかの村の村長をつとめたルナールも、若いころは危険な情熱に振り回されていたんだな、と思わせる作品。

この訳本には一部省略箇所がある。それは最後のほうの、主人公がヴェルネ夫妻の姪(十六歳!)を誘惑、強姦する場面だが、ここを省略してしまうとアンリの性格を理解する上で少しばかり欠落が生じる。時代のしからしむるところとはいえ、残念なことだと思う。

高木佑一郎の訳はすばらしく、知らずに読めば岸田国士の訳かと思うほどだ。

少女時代との出会いと別れ


ネットで遊んでいると、ときどき思いがけないものに出くわす。数日前だが、リンクをたどっていたらメキシコの虐殺動画が出てきてびびった。こういうものまで今ではふつうにネットに上っているのか……非常によろしくない、と思う一方で、文章だけでは伝わらない人間の残虐性が生のかたちで捉えられているのにある種の感銘を受ける。昔の暴動(サッコ・ディ・ローマとか聖バルテルミーの虐殺とか)も、文や絵でわれわれが知っている以上に酸鼻をきわめたものだったに違いない。歴史の教科書などで「○○の乱」の一字ですまされているもののうちに、いかに多くの血が流れていることか、と考えてくると、人間のやっていることの変らなさ、愚かしさに気が滅入ってくる。

さて、きょうもやはりリンクをたどっていてこういう動画を見つけた。

曲はいわずと知れたアバの名曲だが、こういうふうに歌われるとオリジナルとはまた違った魅力が感じられる、それに後半の Genie という曲もわるくない、いや、非常によい。

こんなグループがあったのか、という驚きの気持で、少女時代について二時間ほど調べてみた。そういうことをさせるだけの力が上記の動画にはあった。しかし、この二時間で少女時代についてはだいぶ詳しくなったが、同時に急速に熱のさめていくのも感じた。そのきっかけになったのは、Genie 盗作疑惑である。

たしかに他の楽曲の一部を流用するとか、あるいは曲想やアイデアをいただくとか、そういうのはポピュラー音楽界にあっては日常茶飯事であろう。しかし一曲まるごとパクってきて、それを自分たちのオリジナルであるかのようにクレジットするというのは、なんぼなんでもやりすぎではないか。過去にそういうことが行われていたことは私も知っている。しかし、情報の限られていた60年代、70年代ならいざ知らず、このネット時代にそういうことをやったらすぐにバレる。それにもかかわらずそういうことを平気でやってしまう韓国の音楽産業のあり方に、なんともいえない前時代的なものを感じてしまった。

そういうところから生み出されてくるものは、一見どれほど輝いてみえようとも、しょせんはニセモノである。ニセモノに付き合っている暇はない、というわけで、わずか二時間ばかりで私と少女時代との幸福な関係は終止符を打ってしまったのである。

岩田慶治「花の宇宙誌」


古本屋で見かけて、最初のほうに「正法眼蔵」からの引用があるので「おお…」と思って買ったものの、どうも私の求めているような方向の本ではなかった。そればかりではない、読んでいるうちにだんだんムカついてくる。このムカつきは腹立ちとは違う、呑み込めないものをむりやり呑み込もうとするときに感じられる胸のわるさのことだ。

この呑み込めなさの根源をさぐると、どうもそこには著者の平和ボケならぬ宇宙ボケのようなものがあって、そのボケにボケた脳髄から発せられる言葉が、地上に縛りつけられて日々苦闘しているわれわれにとっては、浮遊するシニフィアン以上のものに感じられない、ということもあると思う。自然との共生とか、宇宙と一体化して生きるとか、そういったたぐいの言説には宇宙ボケがつきまといやすい。アハ体験とか言ってる人にも同じようなボケは感じられないだろうか。

しかしである、著者はこう言うのだ、「わたしの提案したいこと、探求したいと思っていることは、ボケのなかに真実があるのではないかということなのである」と。つまり著者はボケを忌むべきもの、悲しむべき現象とはみなさず、それこそが宇宙的なあり方のど天井ではないか、と問うのだ。

たしかに、ボケはいちがいに忌避すべきものではない。人間にとっての根源的な恐怖、つまり死の恐怖は、ボケによっていちじるしく緩和される。病院のベッドで口をぽかんと開けてひたすら眠っている老人たちは、迫り来る自分の死を意識することなく、夢見心地のまま眠り、眠ったまま死んでいく。これは主観的には不死にひとしいともいえるだろう。彼らにとっては眠ることがそのまま死に直結しているので、ついに死そのものを体験することがないからだ。

家族のものにとっても、ボケはある意味で「救い」になる場合もあるだろう。自分の親が死んでいくのを見るのはつらいものだが、しかしボケてしまって話もまったく通じない、介護がないと何一つ自分ではできない、そういう厄介な存在を前にしたとき、たとえそれが親であっても親愛の情が薄らいでいくのは自然な成行きだろう。場合によっては「早くお迎えがこないかな」と思ったりもするだろう。そうやって徐々に親との距離を大きくしながらその死を受け入れていくのが、残された者にとっても幸せな道なのではないか、と思ったりもする。

まあそんなこんなで、「花の宇宙誌」というよりは「宇宙ボケのすすめ」と題したほうがしっくりくるような一冊であった。