ロザリー・L・コリー「パラドクシア・エピデミカ」


高山宏の最新の訳本(白水社)。かなりの大冊で読むのに苦労したので、ちゃんとした感想を書いておくべきか、と思ったが、やめにした。というのも、この本でほんとに自分の血肉になったなあ、と思うのは序論とエピローグだけで、肝腎の本論のほうはよくわからなかったというのが正直なところだから。じっさいトラハーンだハーバートだといわれても、こっちにはさっぱり馴染みがないから、議論についていくだけで精一杯だ。とてもまとまった感想なんて書けやしない。

それでもまあ序論はいちおうレジュメをとってみた。これはじつに示唆するところの多い論文で、いままで漠然としかイメージできなかったパラドックスについて、非常に鮮明な視野を得られたのはよかったと思う。古典古代から──中世はまるまる飛ばして──後期ルネサンスまで、パラドックスのありようが手に取るようにわかる。それを一言でいってみろといわれたら困るが、ひとことでは説明できないのがパラドックスというものなのだ。

ところで、かつて仏文学の辰野隆日夏耿之介のことを「逆説の逆説のそのまた逆説の、酢でも蒟蒻でもいかない奴」と書いていたのが妙に記憶に残っているが、コリー女史の本でそんな詩人をあげるとなると、これはもうジョン・ダン以外にいない。ジョン・ダン抜きではパラドックス論が骨抜きになってしまうとでもいわんばかりだ。それくらいいたるところに顔を出しているのである。なるほどやはりジョン・ダンかあ、と思いながら読んでいたら、最後のほうでダンの自殺論を評して「パラドックスパラドックスパラドックス」と書いてあったので、思わず笑ってしまうとともに、おおいにわが意を得た次第である。

そうだ、ひとつどうでもいいことかもしれないがあえて書いておくと、高山氏はアイロニーを「複眼視」と訳している。これはすばらしいと思った。従来の「皮肉」や「反語」といった訳語ではカバーしきれないこの言葉の核をいいあてている。

訳ということでいえば、原文は「コリー的」と評される流麗なものらしいが、高山氏はそんなことにはおかまいなく、みごとなまでに自分の色に染めあげている。まるで高山氏がコリー女史を陵辱しているかのようで、読んでいて思わず手に汗をにぎってしまうが、しかし結果として堂々たる訳本(つまり彼らの子供)ができたのだからよしとしよう。

でもって、この本でいちばんおもしろいのはといえば、じつは訳者あとがきなのである。まったく、いまの日本でこうもおもしろい文を書く人は高山氏以外にいない。そのあとがきによると、氏はコリー女史の本はすべて訳すと宣言している。眼病と闘いながら、というからその決意には壮絶なものがある。ぜひとも百歳までの長寿を祈らずにはいられない。

最後に蛇足を。本書の題名のもとになったブラウンの本(プセウドドキシア・エピデミカ)はかつて「俗説弁惑」と訳された。蘭説弁惑のもじりだと思われる。その伝でいくなら、本書は「逆説弁惑」としてもよかったのである。