岩田慶治「花の宇宙誌」


古本屋で見かけて、最初のほうに「正法眼蔵」からの引用があるので「おお…」と思って買ったものの、どうも私の求めているような方向の本ではなかった。そればかりではない、読んでいるうちにだんだんムカついてくる。このムカつきは腹立ちとは違う、呑み込めないものをむりやり呑み込もうとするときに感じられる胸のわるさのことだ。

この呑み込めなさの根源をさぐると、どうもそこには著者の平和ボケならぬ宇宙ボケのようなものがあって、そのボケにボケた脳髄から発せられる言葉が、地上に縛りつけられて日々苦闘しているわれわれにとっては、浮遊するシニフィアン以上のものに感じられない、ということもあると思う。自然との共生とか、宇宙と一体化して生きるとか、そういったたぐいの言説には宇宙ボケがつきまといやすい。アハ体験とか言ってる人にも同じようなボケは感じられないだろうか。

しかしである、著者はこう言うのだ、「わたしの提案したいこと、探求したいと思っていることは、ボケのなかに真実があるのではないかということなのである」と。つまり著者はボケを忌むべきもの、悲しむべき現象とはみなさず、それこそが宇宙的なあり方のど天井ではないか、と問うのだ。

たしかに、ボケはいちがいに忌避すべきものではない。人間にとっての根源的な恐怖、つまり死の恐怖は、ボケによっていちじるしく緩和される。病院のベッドで口をぽかんと開けてひたすら眠っている老人たちは、迫り来る自分の死を意識することなく、夢見心地のまま眠り、眠ったまま死んでいく。これは主観的には不死にひとしいともいえるだろう。彼らにとっては眠ることがそのまま死に直結しているので、ついに死そのものを体験することがないからだ。

家族のものにとっても、ボケはある意味で「救い」になる場合もあるだろう。自分の親が死んでいくのを見るのはつらいものだが、しかしボケてしまって話もまったく通じない、介護がないと何一つ自分ではできない、そういう厄介な存在を前にしたとき、たとえそれが親であっても親愛の情が薄らいでいくのは自然な成行きだろう。場合によっては「早くお迎えがこないかな」と思ったりもするだろう。そうやって徐々に親との距離を大きくしながらその死を受け入れていくのが、残された者にとっても幸せな道なのではないか、と思ったりもする。

まあそんなこんなで、「花の宇宙誌」というよりは「宇宙ボケのすすめ」と題したほうがしっくりくるような一冊であった。