ケータイ小説としての「クラリッサ・ハーロウ」


近代小説の元祖とされるリチャードソンのクラリッサだが、こんなクソ長い小説を当時だれが読んでいたのだろうか、と考えると、それはやっぱり女性、金と暇のある中流階級以上の女性ではなかったかと思う。男はこんなものは読まないだろう、小説なんぞは女子供の慰みものとでも思っていたのではないか。つまるところ「クラリッサ」を初めとする小説類はこんにちでいうところのケータイ小説と似たような位置づけだったのであり……

いや、そんなことはどうでもいい、私の言いたいのはそんなことではなかった。じつはこのクソ長い小説の和訳がネットにあがっているのを知って、世の中にはすごい人がいるものだと驚くとともに、その肝腎のテクストがなんともいえない読みにくさなのが残念でならないのだ。

読みにくいといっても訳文がひどいとか、そんな話ではない、たんにフォーマットの問題である。ほかの人はどうか知らないが、私のパソコンでこのテクストを読もうとすると、文字の大きさとスクロールの点でいろいろと厄介なことが起るのである。いらいらしてとても読めやしない。まったくもって、訳者はほんとうに人に読んでもらいたいと思っているのだろうか。

どういうフォーマットで読むかは読むほうがきめればいい。そのためにはなるべくプレーンなテクストとして提供するのが訳者の務めではないか、少なくとも人に読んでもらうことを考えているならば。

pdfという形式で配布されるということは、つまりパソコンをもっていないと読めないということだろう。そうじゃなくて、たとえばケータイででも気軽に(とはいかないかもしれないが)「クラリッサ」を読めるようにしておいてほしい、というのが私の願いなのである。