厨川白村「狂犬」


サイコパスにはこの世界がどんなふうに映っているのか、かりにサイコパスになったつもりでこの世を眺めたらどんなふうに見えてくるのか、と考えていてふと頭に浮んだフレーズがある。それは「かりに狂犬のこころもちになって世の人を見たならば、かくもあろうかと思って、書いて見たのが……」というもので、厨川白村の「狂犬」の巻頭にある一文である。

かりに狂犬のこころもちになって……おもしろそうな本だと思いませんか? しかしこの「狂犬」なる作品は、著者の全集には載っていない。編者附記として、「……『狂犬』は著者晩年の意志に副い全然省略した」とある。どうやら白村はこの作品を自分の著作目録から抹殺することを望んだらしい。生みの親によって撲殺された狂犬。よほど当り障りのあることが書いてあるのだろうか。それならますます読んでみたいが……

というわけで、図書館で借り出して読んでみた。

さて、内容について語る前にちょっと書いておくと、日本では完全に忘れ去られている、もしくは問題にもされていない厨川白村だが、中国語圏ではこんにちにいたるまで一世紀以上も大切にされ、愛されているということを最近知った。その間の事情は次の本に詳しい。

なか見!検索」でちょっと覗いてみると、「中国語圏の知識人の間では、厨川白村は鴎外や漱石以上に知名度が高い」とか、「北京大学の一教授曰く、白村はニーチェベルクソン、クローチェ、フロイトなどと肩を並べるほどの世界級の学者である、云々」とか刺戟的な言葉が並んでいる。彼の著作は魯迅をはじめとする優れた翻訳者によって系統的に中国語に訳されていて、各時代におけるその影響力にはかなりのものがあったらしく、それは文体という微妙な面にまで顕れているらしい。

では白村のどういうところが中国人にアピールしたかというと、それはおそらく「理想主義的反抗者」としての面が大きいように思う。理想主義的反抗者というと、日本人にはいかにも青臭い、世間知らずのお坊ちゃんみたいに見えるだろうし、じっさいそういう面が当時の(そして今日の)白村軽視につながっていると見ることもできる。「度し難いかな口舌の徒」というわけである。大学の先生でありながら「近代の恋愛観」なんていう本を書いたことに、学者としての堕落を見た人もいるだろう。

しかし彼のこういう学者らしからぬ「反抗的人間」の魂の叫びのようなものが、若いころの私には非常に魅力的なものにみえた。彼の本のどのページを繰っても、そこには生々しい生の息吹が感じられる。彼の文は生きて血が通っている、翻訳にいたるまでそうである。それが私には嬉しかった。

「狂犬」に話を戻すと、この本には著者のそういう「反抗的人間」の素地が露骨なまでに現れている。気に食わない人間に出くわすと、だれかれかまわず噛みつき、肉を裂き、骨を断たずんばやまざる気合である。傍若無人の酒宴を張る隣の住人に「ばか! やかましい」と大喝を浴びせ、躾のなっていない友人の子供の頭に鉄拳をふるう。じつに痛快である。が、子煩悩の親を憎むあまり、その子供の顔貌まであしざまに書くにいたっては、私といえども「引いて」しまう。なにもそこまで言うことはないじゃないか、これじゃまるでほんものの狂犬だよ……

著者はスターンの「トリストラム・シャンディ」か風来山人の「風流志道軒伝」のようなものを書いてみたいと思っていたようだが、できあがった「狂犬」を見るかぎり、これは漱石の「猫」を直接の雛形にしたものだと思わざるをえない。

出だしはこうである、

僕は狂犬だ。
狂犬だか何だか実は自分では知らないんだ。が、人間という奴が勝手次第に、遠慮会釈ものう、僕の頭上に「きちがい」と云う名称を附加したのである。


また癇癪もちの苦沙弥先生ともいうべき「主人」が現れて、彼の変人ぶりが縦横に語られるところや、随所にペダンチックな薀蓄が飛び出すところも「猫」と同工異曲である。

以下、いくつか抜書を並べておく。

……しかしまたよく考えて見ると、撲殺と云うことは人間としてはよほど上出来のやりかたで、不単純な、俗悪な人間の事だから、僕等を殺すのにも毒殺とか陥穽とか云うような陰険な手段を執りそうなものだが、そんな下等な事をしない丈けがいくらか心持がいい。

火を見ると直ぐに自殺すると云う蠍を除けては、凡ての生物中、自らの意志で生を絶つものは人間だけである。

燃えるような青春の血は涸れはてて死灰枯木のようになってから、なおああして果敢ない生を貪ぼっているのは、人間として実に大なる恥辱、大なる悲劇では無いか、賀も祝いもあったものじゃない。

……読んで金になるような書物は、書物と云われる資格のないもの、所謂 biblia a biblia だ位の事を知らないか。

……愚にもつかぬ旧交なぞは、温めるどころか、大に冷して了いたい位なもんだ。

論語をかつぎ出して、ひとかど道を説いた先生が、下婢をどうしたとか云う有名な話……

……円満院不得要領居士、またの名を「不得要領を得た奴」とかいうので……

一体、天下に理屈と云うもの位、強いようで弱いものは有りやしない。人間の社会を見ろ、力あるものの前には理屈なぞは糞の役にも立っていないじゃないか。……logic-chopper は引込んで居ろと云う事になる。

日本では坊主と云えば、梵妻の連れ子や、貧乏人の子沢山で溢れた過剰物が成るのだから、人物も卑しければ頭も低脳だ。和尚だの住職だのと、何も知らぬ善男善女を相手にいやに威張っては居やがるが、学問もなければ、肝腎の信仰さえあぶないものだ。

……酒はきちがい水だ、……

むやみに麦酒をあおって、あのハッハ、ホッホいう蛮音の多い、ノッホ・ニヒト・ゲゲエベン・ハッテなぞと云う言葉で管をまく奴の多い独逸だけを、日本の識者とやら申すお方は、新進の強国なぞと云って頻に感服してござる。

……とにかく職業という名の附くものにろくなものは無いようだ。

自分の仕事に身が入らずに、日曜と休暇を指折り数えて待っている間に、いつのまにか年を取って墓穴に這入るような愚劣な生涯を僕は送っては居ないよ。

……無礼なやつには喰い付くし、厚意をもつ者には厚意を以て酬ゆるのだ、tit for tat だ。


最後に結びの一節。

いまの人間社会には剃刀のように切れる人間なぞは腐るほど居るから、更に要はない。それよりは才も何もない力と熱とのみの棍棒のような、鉄槌のような、極めて単純なる愚物が必要なのだ。ところがそんな貴いものはこの澆季の世には薬にしたくも、居ないようだから、そこで僕のような狂犬が飛出して、先ず第一に如何に罵るべきものかと云う模範を示してやったのだ。軽浮な緑雨式や源内式の気障を離れて、先ず僕一流の「狂犬式」に、血烟の立つような、すさまじい獅子奮迅の罵倒法を学んだがよかろう。そして狂犬を撲殺するよりは、先ず才子とやらを撲殺し手腕家とやらを絞殺し、シッカリした人物とやらを駆除するのが目下第一の急務であろう。


……たしかに著者ならずとも著書目録から抹殺したくなるような作品ではある。